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人権とキリスト教#2 人権と人格尊厳 [人権の神学]

同盟教団には人格尊厳問題委員会がある(2010年現在、活動休止中)。この委員会の名称が「人権」の語を避けている理由として故本間進委員長は次の点を挙げている。
 
・「人権」の無神論的フランス啓蒙思想へのつながりに対する懸念。
・「人権」と「人間の欲望」との混同。
・「人権」の使用に関する不毛な論争。
(委員会機関紙「人格尊厳」No.1(1997年5月22日発行)「人格尊厳問題委員会・機関紙発行に寄せて」参照)

人権に対する懸念の声の所在が委員会の中なのか外なのかは不明であるが、常識的に考えるなら委員会の外だろう。そして上記2つの人権に対する懸念に対する反論は可能である。人権思想の歴史的源泉への問いに対する反論として、イギリスやアメリカのキリスト教的な諸権利宣言をあげることは可能である。また「人権」と「人間の欲望」との混同に対する反論として、そもそも人権とは権力の非対称性における専制と圧迫に抗する法的基盤を与えるものであって人権と人間の欲望(の肥大化)は異なる概念である、と言うことは可能である。もっとも、先の懸念を持つ人々がこのような反論によって納得するか否かは別問題である。おそらく委員会内ではより深くより広く議論がなされたであろうし、そのような人権への懸念に対する反論は用意されていたことと思う。

しかし委員会発足に際し「不毛な論争」を避けるとの実践的理由から、人権への懸念に対して反論しなかった。そして委員会の名称に「人権」の語を入れることを避けて、「人格尊厳」の語を入れた。本間委員長は「人格尊厳」の語がローザンヌ誓約(1974年)の第5項に由来することを述べている。
「人間は神のかたちに似せて造られているので、一人びとりは、人種、宗教、皮膚の色、文化、階級、性別、年齢にかかわりなく、それぞれ本有的尊厳性を有すものである。」
私は、本間委員長が委員会の名称を人権問題委員会ではなく人格尊厳問題委員会にしたことは良かったと思っている。それは本間委員長も述べているように、人格尊厳がより聖書的概念であるからである。そのことについては後日述べたいと思う。

「人格尊厳」は「人権」よりも聖書的概念ではあるが、逆に「人権問題」と言えば通じることが「人格尊厳問題」と言うことによって分かりにくくさせることもある。本間委員長も「(人格尊厳問題とは)オヤツと思われる馴染みのない名称」と述べている(前掲書)。たとえば、「ハラスメントは人権問題である」と言うのと「ハラスメントは人格尊厳問題である」と言うのでは、前者の方が一般に受容されやすい。そういう不利さはあるが、それは今後の啓発によって克服されると信じたい。
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