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権威を持つ者は危険な立場に立つ [カルト化・マインドコントロール]

小さな命を守る会代表水谷潔先生のブログ「命と性の日記~日々是命、日々是性」で当ブログを紹介していただいたためでしょうか、ここ数日アクセスが非常に増えております。アクセス数の伸びはうれしくもあり恐ろしくもあります。気を引き締めて取り掛からねば。水谷先生には、15年前の特伝での出会いを覚えていてくださり感謝いたします。今後ともよろしくお願いいたします。個人的な話はさておき。

教会のカルト化記事の続きです。カルト化の背景に権威主義があることは、既に各所で指摘されております。権威主義だけが原因ではありませんが、それが要因の一つであることはまず間違いないでしょう。権威主義は教会だけの問題ではありませんが、しかし教会は権威ある務めが存在するところですから、権威主義が生じる危険性はあるわけです。

※注 権威と権威主義は別物です。 権威・・・自発的に同意・服従を促すような能力や関係のこと。(wikiより) 権威主義・・・意思決定や判断において自分の頭で考えたり情報を集めずに権威に盲従する態度。あるいは意思決定の場において、論理的説明を省略し、権威に対する盲従を他者に要求する態度を指す。(wikiより。下線は引用者による)

すべての教会が権威主義的だというのではありません。多くの牧師たちは権威主義ではないと思います。しかし権威主義に陥る可能性はあります。

牧師の権威の危険性について、ユージーン・ピーターソンが著書『牧会者の神学』の中で述べている箇所が有益だと思いましたので、読者の方々にもご紹介いたします。「第3章 霊的導き」の中から牧師の権威と服従について述べている箇所があります。少々長めの引用をすることをお許しください。
より健全な時代においては当然とみなされてきたものが広範に失われたことによって、牧師は(ほとんど意識することなく)途方もない危険の中に置き去りにされてしまった。そしてその残骸がたくさん積み重なることになったのである。すなわち、祈らない牧師、信仰的に成長しない牧師、文化とキリスト教の相違を語らない牧師、一時的な流行を追いかける牧師、シニカルでなにもしない牧師、二十年間も祈祷を続けてきたにもかかわらず、祈りについて知るところは按手を受けた日と同じ程度でしかないような牧師、長年にわたって善意の教会員から投げかけられた「牧師さん、すばらしい説教です・・・牧師さん、すばらしい祈りです・・・牧師さん、あなたがいなければ私は・・・」というたぐいの、でまかせのお世辞の文句によって傲慢で桁外れのエゴに満たされた牧師・・・。 権威を持つ者は危険な立場に立つのである。洗礼、信仰告白、結婚、和解、死といった人生の記憶すべき瞬間に牧師は尊厳をまとって登場し、神の権威を代理する。説教壇から、聖餐台から、そして洗礼盤から、牧師は神の権威ある言葉を告知する。あらゆる種類、あらゆる状態の人々が牧師のもとにやって来て、その口から発せられる決定的な神の言葉を聞く。人々は牧師の洞察に信頼して、自分の罪責に満ちた人生における罪や痛みを告白する。人々は牧師を権威あるものとして見上げるのである。 しかし、私たちの信仰の実践には、権威をふりまわすこととは正反対のことがら、すなわち服従の実践が含まれている。信仰とは主であるキリストに服従する行為であり、その命令に進んで応答することである。牧会上の要請として、どれほど牧師が主の名によって権威をもって語り、また行動しようとも、キリスト者としての私たちのアイデンティティーは「仕える者」としてのそれである。(E.H.ピーターソン『牧会者の神学』307ページより。下線は引用者による)

仕える者としての生。これがキリスト者のアイデンティティーでしょうし、それが権威主義に対する回答と言えるでしょう。

とはいえ、「仕える」という言葉が使われているからといってそれだけで健全な教会であるとは言えません。むしろカルト化教会においてはかなりの頻度で「仕える」という言葉が使われているようであります。ですから何に仕えているのか。その辺をしっかりと見極めることも必要でしょう。

なお、人間というものは、周囲からの賞賛を得ようとして「仕える」姿勢を取ることさえありうる、ということも付け加えさせていただきます。「自分は『仕えている』のだ」と口や態度で自己宣伝するような人間が陰では権威を振りかざしているということさえありうるのです。自分でも言い、周囲からも「仕える牧師」と認められている牧師が、問題を起こしているわけですから。

仮想の対話
A「・・・でも、あの牧師は本当に仕える先生ですよ。」
B「どうしてあなたはそう思うのですか?」
A「だって、あの牧師は『わたしほど仕える牧師はない』っていつも言ってましたから。」
B「でもそれは、本人が自分でそう言っているだけなのでしょう?」
A「いいえ。それだけではありません。あの牧師は私たちの生活の細かい点まで徹底的に指導してくださるのです。ここまでしてくださる牧師を私は知りません。あの牧師こそ本当に仕える牧師だと思います。」
B「それって本当に仕えていることになるのですか?誰に仕えているのですか?」
A「えっ・・・」
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