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人権とキリスト教#3 人権理解の神学的基本モデル [人権の神学]

 人権について教会はどのように対処すべきか。このような問いが生じる背景には、そもそも人権という概念が聖書的かどうかはっきりしないという点にもある。今日では教会において人権概念はおおむね肯定的に受容されているといえよう。しかしながら最初からそうだったのではない。人権思想が登場してきたとき、ローマ・カトリック教会もドイツ・プロテスタント教会もこの人権思想に対しては当初からほぼ一貫して批判的な態度を取り続けてきた。その態度が180度転換するのは第二次世界大戦以降である。それはナチ国家とスターリン主義国家という反教会的国家による人間の尊厳に対する侵害(W.フーバー/H.E.テート著『人権の思想 法学的・哲学的・神学的考察』(河島幸夫訳、新教出版社、1980年、pp.73)がきっかけである。現代ではローマ・カトリック教会もドイツ・プロテスタント教会も人権擁護の側に立っていると言えよう。この辺りの経緯についてはヴォルフガンク・フーバーとハインツ・エドゥアルド・テートの『人権の思想』に詳しいのでここでは述べない。

 人権を神学的にどう基礎付けるのか。そもそも人権を神学的に基礎付けることが可能なのか。それとも、いわゆる「人道的エートス」に道を譲るのか。フーバーとテートは人権理解の神学的基本モデルとして次の5つをあげ、それぞれに批評を加えている(前掲書、pp.76-87)。それをここで紹介したい。以下の批評はフーバーとテートによる批評であり、私、伊那谷牧師によるものではないことを念のため申し上げておく。ただし文章をまとめるために、フーバーとテートが使っていない言葉を使っている場合もあることをご理解いただきたい。正確な議論を求める方は前掲書に直接当たっていただきたい。

1.人権を神学的命題から直接基礎付けたり引き出そうとする考え方。
ユルゲン・モルトマンなど。
「人間に対する神の権利の中に基本的人権を位置づける。」
しかしこの考え方は、
・人権の歴史(人権が神学や教会の抵抗に会いながら実現されてきたという歴史)と調和しない。
・人権の法的性格が考慮されていない。人間に対する神の権利から人権を演繹することは、神学と法の混同である。

2.人権を二重の仕方で基礎付ける考え方。
第二バチカン公会議など。
「第一に、人間の理性によって普遍的に認識可能な「人間の尊厳」という概念に人権を基礎付ける。第二に、この「人間の尊厳」を「神の似姿」と「神の戒め」により基礎付ける。第一の基礎付けによって、キリスト者と非キリスト者において了解が成立しうると期待され、第二の仕方によって、人権の特殊キリスト教的な基礎付けを可能にする」というもの。フーバーとテートは、こうした人権の二重の基礎付けはとりわけ第二バチカン公会議の諸文書を貫く方法である、という。
しかしこの考え方は、
・カトリックの道徳教説における伝統的な方法論、「自然法」と「神の啓示」という二重の仕方、を繰り返しているように思える。こうした二重の基礎付けを結びつける方法論的な可能性はまだ明らかにされていない。
・「人間の尊厳」概念を自明のものとしているが、「人間の尊厳」概念は自明のものであるだろうか。人権の歴史における深い亀裂によって「人間の尊厳」がむしろ自明のものではないことを示している。
・人権の法的性格の解明が不十分である。

3.人権の神学的な基礎付けや正当化を断念するという考え方。
マルティン・ホーネッカーなど。
この考え方は、人権の歴史的発展から導き出されたもの。「人権は単純にキリスト教から生まれた果実でも帰結でもない。それゆえ神学的正当化という手段を使って人権をキリスト教信仰の中に囲い込むことは許されない。人権はキリスト教倫理の刻印を受けたものではなく、むしろ「普遍的な自然的エートス」(「世界社会の人道的エートス」)の表れである。一般に倫理とは原則として人間的なものにかかわるものであり、どのようなキリスト教的基礎付けも必然的に特殊性という性格が付きまとう。むしろ人権は合理的な、一般人の理解しうる人間科学の諸成果によって獲得すべきである」とする。
しかし、
・そもそも「世界社会の人道的エートス」が単純に所与のものとして前提されてよいのか。そのようなエートスがいかにして定式化されるのかは大いに問題である。それは人権を巡る議論によってはっきりと証明される。
・「普遍性」を「世俗化」や「合理化」と同一視している。他方、キリスト教信仰の内容を無造作に「特殊なもの」と性格づけられている。人権の普遍性と福音の普遍性とがいかなる関係をもっているのかという問題に対しては、人権の普遍性が無条件に承認され、逆に福音の普遍性が承認されないというのはいかがなものか。
・キリスト者と非キリスト者との間に了解を成立させるために、神学を断念するのではなく、むしろ神学で取り扱うべきである。
・人権のテーマを神学で取り扱うねらいは、キリスト教によって人権を独占することではない。むしろ人権を理解し、人権と有益にかかわるために生産的な貢献をすることである。それは福音の普遍性から出発して人権の普遍性を吟味することをも意味している。

4.人権の機能と神学的思考様式の平行関係によって人権と神学とを結びつけようという考え方。
トゥルツ・レントルフなど。
「現時点において一般的に妥当する人権の神学的基礎付けあるいは哲学的基礎付けは存在しない。一方で人権は、人間の自由と人間性が政治秩序に先立つものであることを法的現実とする機能を持つ(つまり、国家や政治は人間の自由と人間性を勝手に処理できないものである、とするのが人権の機能である)。この人権の機能に構造的に対応する神学的思考様式は義認論である。義認の教えによれば、神の恵みに基づく人間の自由は、無条件、無前提の、それゆえ勝手に処理しえない自由である。むろん義認論から人権が生じたわけではない。しかしながら、国家は個人の自由を保障する保証人となることが要請されており、ここに義認論と人権との間に構造的な共通点がある。自由という意識の、同じ歴史的展開領域に属するという歴史的パースペクティブの中で、この見解の正当性は確証される。」とする。フーバーとテートはこの見解に一定の評価を加えつつも、次の疑問も呈している。
・この考え方は人権の一義性を前提としているが、しかし現実は人権解釈を巡り論争がある。
・この考え方は、近代の政治的自由とキリスト教的自由を、あたかも必然的に一致するかのように考えられているが、しかし両者の類似性のみならず相違点も批判的に検討しなければならない。
・この考え方は、人権のうち、個人の自由の要素が前面に出ているが、人権の歴史において重要な平等と参加という要素は、後退している。

5.神学の基本的証言と人権との間に存在する類比と相違という問題意識から出発する考え方。
エーバーハルト・ユンゲル、ハインツ・エドゥアルド・テートなど。
「神が創造された義と、人間が相互関係の中で認め合う法的地位としての権利との間に一つの対応関係が存在する。キリストにおいて打ち立てられた義と、人間が世界の形成のために設け、得ようとしている権利との間には、一つの関係が存在する。なぜならこの神の義は全被造物と人間全体とに及ぶからである。両者は決して同一ではないが、そこには方向付けを示す類比性が存在する。他方、神の義と、人間の間で実現され求められる権利との間には、本質的な相違がある。この相違は、神の義に対して、一切の人間的権利が一時的で相対的な性格を持つという点に示されている。
この考え方は人権の神学的基礎付けを問題としない。なぜならそうした問題設定は、人権の歴史や現代における人権の実現という要請をも正しく受け止めることができないからである。むしろ、人権に対するキリスト教のかかわりがいかなる基礎の上になされるかを、また、人権がいかなる基礎によって神学的に理解されうるのかを、問題にする。」というものである。
テート自身がこの考え方の持ち主であることからも分かるように、前掲書ではこの考え方を肯定している。
「神の義と人間の権利の類比と相違」という考え方は説得力に富む。なによりもこの考え方により、人権概念を重視しつつも相対化しうるという点が優れている。なお神学と社会の「類比と相違」という方法論はバルトに見ることができるだろうが、その是非について論じることは今回は割愛したい。

 次回は、この「神の義と人間の権利の類比と相違」についてもう少し紹介をし、私の評価も加えたい。そして、いわゆる「教会のカルト化」やハラスメントなど、教会における人権問題について「神の義と人間の権利の類比と相違」を援用しつつ試論を述べてみたい。
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