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「教会のカルト化」とハラスメントは関連すれども区別すべき [カルト化・マインドコントロール]

「教会のカルト化」とハラスメント(セクハラ・パワハラ)は関連すれども区別すべきことがらである。

「教会のカルト化」による被害の1つとしてハラスメントが上げられる。しかしハラスメントだけがカルト化による被害のすべてではない。
一方、ハラスメントがあってもカルト化とは無関係の場合もある。

カルト化とハラスメントを区別することが両者の理解を深めることに役立ち、よりよい対策につながるであろう。
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マインドコントロール下に置かれている者の感情を想像すること、など  [カルト化・マインドコントロール]

「マインドコントロール」とは「明らかに違反(教義違反、不道徳行為、不法行為、反社会的行為、あるいは信念や良心に反することなど)であると知りつつ、組織の指導者の言説を、あたかも自分の意志であるかのように判断し行動すること」である。

幾つかの組織で発生した事件やハラスメントの、そのすべてがマインドコントロール下にあったと言うつもりは毛頭ないけれども、ただ、その中の幾つかはマインドコントロール下にあったと推測される。被害者たちも自分は指導者のマインドコントロール下にあったと証言している。性被害者についても、内心ではこれはいけないことだと知りつつも、一方では指導者の命令に逆らうことの方を恐れたために、指導者の性犯罪に対して抗拒不能であった。これが準○○罪の抗拒不能の意味するところであろう。

マインドコントロールについて理解に乏しい人々は、マインドコントロール下にある者の感情(特に恐怖心)を想像できないために。「いけないと分かっているなら、なぜ最後まで抵抗しないのか」とか「被害者にも非があるのではないか」と思うだろう。確かに、マインドコントロールを経験したことのない人にとって、マインドコントロール下にある者の感情は分からないだろう。しかし経験がなくても思索することはできる。思索によって人間は、かなり想像できるものである。要は、理解しようとするかしないかの問題である。

密室で何が起こっているか?外にいる人間には全く分からない。そして一般的には、被害を訴える者の声を聞いても、そんなことはありえないと決め付けやすい。特に「バランスの取れた(と自負している)」人間はそういう判断をしがちである。もちろん、被害の訴えの全てが必ずしも真実であるとは限らない。そこには虚偽や誤解、針小棒大なこともあるだろう。しかし、もし被害者の感情があるならば、やはり密室で何かがあったのである。密室で何かがあったということは想像できるはずである。被害者から相談を受けた人は、それぐらいのことはしていただきたい、と私は願う。しかし、それはたぶん絶望的な願いであるけれども。

これは私の印象でしかないのだが、カルトやハラスメント被害者の相談に乗っている人は、ややアンバランスな人である。相談を受けると「やはり」と思うのは、このアンバランスな人間である。逆に、「バランスの取れた(と自負している)」人は、そのような相談に乗れる人はほとんどいない。相談されても「まさか」と思ってしまい、心にブレーキがかかってしまうのだろう。それは致し方ないのかもしれない。しかし、そのために問題がある。アンバランスな人は相談相手としてはふさわしいが、解決方法がやや極端に振れる印象がある。そのために解決が解決になっていないかもしれない。やはり相談から解決に向かっては、バランスの取れた人間の方が好ましいと私は思っている。

相談相手には、密室で何が起こっているかを想像できる人、あるいは被害者の感情に寄り添える人。
解決者には、冷静にバランスよく良識的に対処できる人。
この両者の協力が必要である、と私は思う。
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教会のカルト化メモ3.11 [カルト化・マインドコントロール]

色々と役目が重なりしばらくブログを更新できないでおりました。今後もしばらく更新できないかもしれません。読者の皆様にはお待たせすることになりますが、よろしくお願いいたします。とりあえずメモを記しておきます。メモの数字の順番に意味はありません。

1. 「教会のカルト化」およびまたは「牧師の不祥事」について、他人事とせず自分達自身の問題として受け止める声が増えているようである。教会のメタノイアとして良い方向に進んでいると思う。

2. 「教会のカルト化」は、より正確に言うならば「一部の教会に、破壊的カルトと類似の被害が見られる、あるいはその危険性」のことである。決して「キリスト教会全体が破壊的カルト化している」という意味ではない。このような誤解を生じさせないために「教会のカルト化」という表現を改める必要があると思う。

3. カルト化は福音に反する。

4. カルト化している教会はごく一部であって、キリスト教会全体がカルト化しているわけではない。ただし、カルト化を生み出す要因の幾つかが、カルト化していない教会においてもあるのではないかという疑いも持っている。むろんそのような要因があるからといって即カルト化状況を生み出すとわけではないだろうけれども、そのような要因はキリストの福音に照らし合わせるならば、やはりきよめられなければならないと思う。

5. 性犯罪など牧師の不祥事は、教会のカルト化とは関連するが区別すべきことがらである。つまり、カルト化しなくても性犯罪は起こりうる。また性犯罪を伴わないカルト化もありうる。

6. カルト化とパワハラも、関連するが区別すべきことがらであろう。

7. 牧師の不祥事に対する対策は牧師の心得が大であるが、教会のカルト化は牧師の心得では対処できない。

8. 教会のカルト化は集団心理である。

9. 「牧師に従え」「牧師に逆らうな」「目に見える牧師に従えない人が、目に見えない神に従うことはできない」「牧師の問題は神が取り扱うから、信徒が牧師を咎める必要がない」「○○先生の弟子」「教会の一致を乱す」「皆で決めたことに逆らうのか」という言説について。

10. 競争心、焦り、プレッシャー(特に教勢や会堂建築に対する)、自意識過剰、自己正当化、無知・無力に対する恐れ、「熱心でない」ことに対する恐れ、マンネリズムに対する恐れ、支配欲とその反動としての怒り、自己顕示欲、虚栄心、評判、劣等感と優越感、バッシングとバッシング回避、コミュニケーションギャップ、事なかれ主義・・・
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権威を持つ者は危険な立場に立つ [カルト化・マインドコントロール]

小さな命を守る会代表水谷潔先生のブログ「命と性の日記~日々是命、日々是性」で当ブログを紹介していただいたためでしょうか、ここ数日アクセスが非常に増えております。アクセス数の伸びはうれしくもあり恐ろしくもあります。気を引き締めて取り掛からねば。水谷先生には、15年前の特伝での出会いを覚えていてくださり感謝いたします。今後ともよろしくお願いいたします。個人的な話はさておき。

教会のカルト化記事の続きです。カルト化の背景に権威主義があることは、既に各所で指摘されております。権威主義だけが原因ではありませんが、それが要因の一つであることはまず間違いないでしょう。権威主義は教会だけの問題ではありませんが、しかし教会は権威ある務めが存在するところですから、権威主義が生じる危険性はあるわけです。

※注 権威と権威主義は別物です。 権威・・・自発的に同意・服従を促すような能力や関係のこと。(wikiより) 権威主義・・・意思決定や判断において自分の頭で考えたり情報を集めずに権威に盲従する態度。あるいは意思決定の場において、論理的説明を省略し、権威に対する盲従を他者に要求する態度を指す。(wikiより。下線は引用者による)

すべての教会が権威主義的だというのではありません。多くの牧師たちは権威主義ではないと思います。しかし権威主義に陥る可能性はあります。

牧師の権威の危険性について、ユージーン・ピーターソンが著書『牧会者の神学』の中で述べている箇所が有益だと思いましたので、読者の方々にもご紹介いたします。「第3章 霊的導き」の中から牧師の権威と服従について述べている箇所があります。少々長めの引用をすることをお許しください。
より健全な時代においては当然とみなされてきたものが広範に失われたことによって、牧師は(ほとんど意識することなく)途方もない危険の中に置き去りにされてしまった。そしてその残骸がたくさん積み重なることになったのである。すなわち、祈らない牧師、信仰的に成長しない牧師、文化とキリスト教の相違を語らない牧師、一時的な流行を追いかける牧師、シニカルでなにもしない牧師、二十年間も祈祷を続けてきたにもかかわらず、祈りについて知るところは按手を受けた日と同じ程度でしかないような牧師、長年にわたって善意の教会員から投げかけられた「牧師さん、すばらしい説教です・・・牧師さん、すばらしい祈りです・・・牧師さん、あなたがいなければ私は・・・」というたぐいの、でまかせのお世辞の文句によって傲慢で桁外れのエゴに満たされた牧師・・・。 権威を持つ者は危険な立場に立つのである。洗礼、信仰告白、結婚、和解、死といった人生の記憶すべき瞬間に牧師は尊厳をまとって登場し、神の権威を代理する。説教壇から、聖餐台から、そして洗礼盤から、牧師は神の権威ある言葉を告知する。あらゆる種類、あらゆる状態の人々が牧師のもとにやって来て、その口から発せられる決定的な神の言葉を聞く。人々は牧師の洞察に信頼して、自分の罪責に満ちた人生における罪や痛みを告白する。人々は牧師を権威あるものとして見上げるのである。 しかし、私たちの信仰の実践には、権威をふりまわすこととは正反対のことがら、すなわち服従の実践が含まれている。信仰とは主であるキリストに服従する行為であり、その命令に進んで応答することである。牧会上の要請として、どれほど牧師が主の名によって権威をもって語り、また行動しようとも、キリスト者としての私たちのアイデンティティーは「仕える者」としてのそれである。(E.H.ピーターソン『牧会者の神学』307ページより。下線は引用者による)

仕える者としての生。これがキリスト者のアイデンティティーでしょうし、それが権威主義に対する回答と言えるでしょう。

とはいえ、「仕える」という言葉が使われているからといってそれだけで健全な教会であるとは言えません。むしろカルト化教会においてはかなりの頻度で「仕える」という言葉が使われているようであります。ですから何に仕えているのか。その辺をしっかりと見極めることも必要でしょう。

なお、人間というものは、周囲からの賞賛を得ようとして「仕える」姿勢を取ることさえありうる、ということも付け加えさせていただきます。「自分は『仕えている』のだ」と口や態度で自己宣伝するような人間が陰では権威を振りかざしているということさえありうるのです。自分でも言い、周囲からも「仕える牧師」と認められている牧師が、問題を起こしているわけですから。

仮想の対話
A「・・・でも、あの牧師は本当に仕える先生ですよ。」
B「どうしてあなたはそう思うのですか?」
A「だって、あの牧師は『わたしほど仕える牧師はない』っていつも言ってましたから。」
B「でもそれは、本人が自分でそう言っているだけなのでしょう?」
A「いいえ。それだけではありません。あの牧師は私たちの生活の細かい点まで徹底的に指導してくださるのです。ここまでしてくださる牧師を私は知りません。あの牧師こそ本当に仕える牧師だと思います。」
B「それって本当に仕えていることになるのですか?誰に仕えているのですか?」
A「えっ・・・」
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卞在昌容疑者起訴 [カルト化・マインドコントロール]

2日遅れの記事上げ

宗教法人代表を起訴=女性信者に乱暴-水戸地検(時事通信より)
 宗教法人代表が信者の女性に乱暴した事件で、水戸地検は17日、準強姦(ごうかん)の罪で、「小牧者訓練会」代表で「国際福音キリスト教会」の主任牧師、卞在昌容疑者(61)を起訴した。  起訴状によると、卞容疑者は、2007年2月17日、茨城県つくば市の教会内で、信者の女性に「神に背いて悲惨な人生を歩まないためには指示に従うしかない」と信じ込ませ、抵抗できない状態に陥らせて乱暴したとされる。(2010/02/17-19:24)


宗教法人性的暴行:牧師を準強姦罪で起訴 被害者団体「裁判で真相を」 /茨城(毎日新聞より)
つくば市に拠点を置くキリスト教系宗教法人「小牧者(しょうぼくしゃ)訓練会」であった性的暴行事件で、水戸地検土浦支部は17日、同会牧師で韓国籍の卞在昌(ビョンジェチャン)容疑者(61)=土浦市=を準強姦(ごうかん)罪で水戸地裁土浦支部に起訴した。  起訴状によると、卞被告は07年2月17日ごろ、つくば市内の同会教会で県内在住の20代女性信者に対し、神に背いて悲惨な人生を歩まないためには卞被告の指示に従うしかないと思いこませ、暴行したとしている。  地検土浦支部によると、卞被告は事件前からこの女性信者に「(自分は)神から権威を与えられた特別な牧師で、神と同じように従わなければ苦難を受けて荒野の人生を歩む」と何度も説教していたという。  起訴を受け、元信者らによる被害者団体「モルデカイの会」は「(卞被告は)絶対的権威を利用し(被害を)訴えることは罪だと被害者に信じ込ませてきた。裁判で、真相が明らかにされることを望む」とコメントを出した。被害者代理人の斎藤大弁護士によると、被害者を抵抗できない心理状態に陥らせたうえでの事件は立証が難しく、裁判例が少ないため、起訴は被害防止に意義があるという。【原田啓之、高木昭午】

逮捕時と同じく準強姦罪での起訴となりました。地検は卞容疑者の嫌疑は十分と判断したのでしょう。裁判の行方に注目したいです。

本件は準強姦という被害者女性の抗拒不能に乗じて強姦をしたという内容です。報道や被害者団体の発表にあるように、卞容疑者はかねてより自身の絶対的権威を主張し、自己への不従順に対する脅しもしていたことで、それが信者らに対するマインドコントロールになっていたと推測されます。そしてそのマインドコントロールによって被害者女性が卞容疑者の性行為に対して抗拒不能状態になっていたと思われます。

ところで従来裁判所は宗教被害に対するマインドコントロールの影響についてあまり踏み込んだ判断をしてこなかったようです。しかし今回の件についてはマインドコントロール(あるいはカルト化)についてある程度踏み込んだ判断がなされるのではないかと期待いたします。強姦罪ではなく準強姦罪ですから、被害者の抗拒不能状況を生み出した背景があるわけです。抗拒不能を作った原因が牧師の絶対的権威の主張にあるとすれば、まさにその問題の認識が今後一層広まっていくのではないか。そのことによってマインドコントロールの危険性を認識し、予防と対策へと向かわせる契機となることを願います。

私はこの事件の背後には、今日のキリスト教会に蔓延する歪んだ規範意識と権威主義があると考えております。本件を特殊な事例として退けず、今日のキリスト教会が抱えている問題の表面化であると捉えることが大事だと思います。そしてこの問題がキリストの光と聖霊の力によって福音的に解決され本来あるべき規範性と権威が教会の中に回復されていって欲しい。そのように願っております。
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卞在昌氏 準強姦容疑で逮捕(追記あり) [カルト化・マインドコントロール]

宗教法人代表、準強姦容疑で逮捕=女性信者に乱暴-茨城県警(時事通信)
信者の女性に乱暴したとして、茨城県警捜査1課とつくば中央署は28日、宗教法人「小牧者訓練会」代表で牧師、卞在昌容疑者(61)=韓国籍=を準強姦容疑で逮捕した。同課によると、容疑を否認しているという。  逮捕容疑では、国際福音キリスト教会の最高位だった卞容疑者は2007年2月ごろ、茨城県つくば市内の教団施設内において、当時信者だった20代の女性に乱暴した疑い。(2010/01/28-16:11)


女性信者にわいせつ行為 韓国人牧師逮捕(産経新聞)
2010.1.28 14:40  キリスト教系教団「国際福音キリスト教会」の施設内で、女性信者にわいせつな行為をしたとして、茨城県警捜査1課とつくば中央署は28日、準強姦(ごうかん)の疑いで、同教会の代表で最高位の牧師だった韓国籍の卞(ビュン)在昌(ジェーチャン)容疑者(61)=土浦市小岩田東=を逮捕した。卞容疑者は容疑を否認している。  同課などの調べでは、卞容疑者は平成19年2月ごろ、同教会の施設内で、県南地域に住む20代の元女性信者に対して乱暴した疑いが持たれている。  卞容疑者のわいせつ事件をめぐっては昨年7月、20~30代の元女性信者ら4人が卞容疑者にわいせつ行為をされたとして、卞容疑者と同教会を相手取り、約4620万円の損害賠償請求を求める訴訟を東京地裁に起こしている。元女性信者側は「(牧師は)指導者の霊的権威は絶対不可侵であるなどと欺瞞(ぎまん)的説法を繰り返し、被害女性を抗拒不能にさせた」と主張している。  被害を受けたという女性は産経新聞の取材に対し「『君には癒やしが必要だ』といってセクハラをエスカレートさせた。衝撃的すぎて声も出なかった。嫌だと感じるのは自分の信仰が足りないせいだと思ってしまっていた」と話していた。

ついに卞在昌氏の逮捕となった。しかも強制猥褻容疑ではなく準強姦容疑である。強姦罪および準強姦罪とは
強姦罪(刑法第177条)  暴行又は脅迫を用いて13歳以上の女子を姦淫した者は、強姦の罪とし、3年以上の有期懲役に処する。13歳未満の女子を姦淫した者も、同様とする。 準強姦罪(第178条の2)  女子の心神喪失若しくは抗拒不能に乗じ、又は心神を喪失させ、若しくは抗拒不能にさせて、姦淫した者は、前条(=強姦罪)の例による。
条文にあるように強姦罪は力ずくによる姦淫であり、準強姦罪は抵抗できない状態の女性を強姦することである。準強姦罪が強姦罪より軽いという意味ではない。量刑の適用範囲等は強姦罪と同じである。強姦罪容疑による逮捕に等しい。

今後の進展に注視したい。
被害者の方々の心身の回復、そして諸教会の聖さの回復を祈るものである。
まずは論評抜きのエントリー。


※追記(1/29)
当初クリスチャントゥデイの記事も掲載しておりましたが、ニュースソースの確度を考慮して掲載を見合わせました。知りたい方は当該サイトでご確認くださいませ。代わりと言ってはなんですが、毎日新聞の記事を載せておきます。同記事には被害者団体代表らの写真も載ってあります。

信者暴行容疑:韓国籍の61歳牧師を逮捕 茨城県警
女性信者に性的暴行を加えたとして、茨城県警捜査1課などは28日、同県つくば市に本拠を置くキリスト教系宗教法人「小牧者(しょうぼくしゃ)訓練会」牧師で韓国籍の卞在昌(ビョン・ジェチャン)容疑者(61)=同県土浦市小岩田東2=を準強姦(ごうかん)容疑で逮捕した。  容疑は07年2月ごろ、つくば市内の関連施設で、県内在住の20代女性信者に暴行したとしている。県警によると、卞容疑者は容疑を否認しているという。  元信者らの被害者団体「モルデカイの会」などによると、小牧者訓練会は卞容疑者が設立し、97年に宗教法人の認可を受けた。茨城、東京、ソウルなどに八つの教会を持つという。一時は信者約500人がいたが、08年から卞容疑者にセクハラ被害を受けたとする信者の声が相次ぎ、大量に脱会したという。女性信者4人が09年7月、卞容疑者や同会に約4000万円の損害賠償を求め、東京地裁に提訴した。【原田啓之】

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カルト化雑考 同調圧力3 同調圧力下における下位者の従属行動 [カルト化・マインドコントロール]

前回の同調圧力の記事からだいぶ日が経ってしまった。まず、これまでの要点を書き記す。

・カルト化とは集団心理が引き起こす問題である。
・カルト化被害には、表面化しやすい被害(性的逸脱、暴力、金銭問題、反社会的行為、近隣トラブル、家庭崩壊)と、表面化しにくい被害(精神的苦痛、心的外傷、ストレス性障害、社会不安障害、人間不信、人格崩壊、信仰の破壊、精神の退行)がある。
・カルト化が生じる要因には、同調圧力、役割規範の強化、そして自集団に対する過大評価、の3つがある。

続いて同調圧力について
・同調圧力とは場を支配する「空気」である。
・同調圧力は支配従属関係を強化する。
・同調圧力には積極的な同調(集団の一致や同調を善とする価値観から生まれる同調)と、消極的な同調(集団の不一致や対立などで疲弊してうんざりしている)の両方がある。
・同調圧力が発生するときには、支配者、従属者、そして傍観者、この3つの存在がある。
・傍観者効果は同調圧力を強化する。


さて次に、同調圧力における支配従属関係について述べたい。
同調圧力は支配従属関係を強化する。下位者の従属行動は同調圧力のもとでさらに強化される。

同調圧力においてとる内的態度は、上位者も傍観者も下位者も基本的には同じである。
ただ下位者に特有なのは、集団から被害をこうむる恐れが非常に強いという点である。恐れだけではなく既に何らかの被害を受けているだろう。一方、上位者も傍観者も被害をこうむる恐れは低い。

より問題を深刻化させるのは、下位者が同調圧力の中では、被害をカミングアウトできず、ますます支配従属関係の中に身を委ねてしまうことである。いわゆる「イジメ」の構造である。
ケンカとイジメは異なる。ケンカでは相手に抗う気持ちも出ようが、イジメでは相手に抗う気持ちさえ出ない。ケンカの相手は1~2人であるが、イジメの相手は集団である。ここで傍観者の存在が非常に重くのしかかる。仮に40人の集団において、上位者が1人、下位者が1人、そして傍観者が38人いるとする。上位者1人が下位者1人をいじめているとしても、それは決して1対1のケンカではない。下位者からすれば1対39のイジメに映るのである。これではどんなに腕力や発言力があろうとも、到底かなわないのである。

しばしば「いじめられて抗わない人も悪い」という言い方をする人がいるが、こんな事を言う人は下位者の心理を想像できないのであろう。

ところで何人の相手がいれば下位者は抵抗をやめて唯々諾々と従属するのだろうか。社会心理学者アッシュの実験によれば3人が閾値である。それ以上になっても集団圧力からうける影響はさほど変化がないという(社会的な集団状況における『同調圧力(集団圧力)・役割行動規範』と『個人の判断基準』との葛藤。リファレンス元は調査中)。なおアッシュの実験によればペナルティー(不利益)がなくても同調圧力が軽くなるわけではない。したがって、たとえば単なる意見の相違であっても、3人に囲まれれば同調しやすくなるのである。

しばしばドラマなどでは、1人対3人としてイジメを描写しているが、あれは人間心理をよく表しているのだろう。


まとめ
・同調圧力のもとでは下位者の従属行動はさらに強化される。
・下位者には相手集団に対して恐れが発生する。
・同調圧力が発生するのは1人対3人から。


次は、同調圧力における上位者の支配行動について述べる予定。
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カルト化雑考 同調圧力2 傍観者が同調圧力を強める [カルト化・マインドコントロール]

傍観者(ぼうかんしゃ)

 集団には少なからず傍観者がいる。傍観者は何もしない。手も口も出さず、ただ見ているだけである。あるいは見て見ぬ振りをしているだけである。どちらかに加担するわけでもなく、どちらかを非難するわけでもない。内心ではどう思っているかは別としても、外面では中立的であるように思われる。一見、傍観者の存在は当事者間になんの影響も与えないように思われる。しかし実際はそうではない。支配従属関係にある当事者に対して、傍観者の存在はその支配従属関係を強化する方向に働く。傍観者は黙認しているわけではないとしても黙認しているように映ってしまう。


傍観者の存在が支配従属関係を強化する

『ヒトはなぜヒトをいじめるのか』(正高信男)によれば、傍観者の存在がいじめを生むという。
「相手を攻撃することが、自分の思い通りにさせるためではなくなって、第三者に自分はこんなに強いんだとか、自分が攻撃したのはこういう理由があるから当然なのだと正当性をアピールする状況になったときから、次のステージに入る。これが、第二段階となるヒト固有の「いじめ」である。・・・いじめが定着してパターン化するのは、その現場を見せ付けたい傍観者がいるからなのだ。傍観者は加担もしないが、仲裁に入るわけでもなく、状況を黙認している。むしろ面白がるケースもありうる。・・・問題を解決するキーワードは傍観者だといえる。」(正高信男『ヒトはなぜヒトをいじめるのか』52~53ページ)。
 ここにあるとおり、傍観者の存在は、支配者の行為を正当化させる効果があり、一方従属者に対しては味方がいないという諦めを生じさせる効果がある。それは傍観者が意図していることではない。傍観者はただ関わりを避けているだけである。しかしその傍観者の存在が、このような支配従属関係を強化してしまうのである。そして傍観者が多ければ多いほど、この支配従属効果はますます強化されていく。

 同調圧力が働く場では傍観者の存在が必須である。傍観者の存在が多ければ多いほど同調圧力は強まる。カルト化集団においても同様である。傍観者は何もしない。しかしまさに何もしない傍観者の存在が、集団内における支配従属関係を強化するのである。

 このように傍観者にも責任の一端がある。もちろん傍観者はいじめやカルト化の主因ではない。主因は支配従属構造の支配する側にある。だから傍観者の責任を述べたからと言って、支配者を免責するものではない。このことは念を押して述べる。ただ、『ヒトはなぜヒトをいじめるのか』にもあるように、集団心理で生じている事柄に対して、当事者だけに焦点を当てても問題の真相は見えてこない。傍観者の存在が同調圧力を強化するならば、そこにもメスを入れなければならないのである。



傍観者を作る心理

 では、なぜ傍観者は生まれるのだろうか。傍観者の心理を知る上でよく取り上げられる有名な事件がある。キティ・ジェノヴィーズ Kitty Genovese 事件である。(「集団の無責任:「傍観者効果」研究を生んだ殺人事件」にも詳しい)これは1964年にアメリカの大都市ニューヨークの深夜、自宅前でキティ・ジェノヴィーズという若い女性が暴漢に襲われて殺された事件である。2週間後にタイムズ紙は、「彼女の叫び声で付近の住民38人が事件に気づき目撃していたにもかかわらず、誰一人助けに入らず警察にも通報しなかった」と報道した。マスコミやコメンテーターは、これを「都会人の冷淡さ」として解説した。「そこにいた人たちが冷淡な人だったから傍観者になった」と考えた。しかし社会心理学者のラタネ Latane とダーリー Darley は「多くの人がいたにもかかわらず、誰も助けなかった」のではなく、「多くの人がいたから、誰も助けなかったのではないか」と考え、実験によってこの仮説を証明した。路上で心臓発作を起こしている人を、もし目撃者が1人だと助けられる率は80%、しかし目撃者が複数いるとその率は30%にまで落ちた。これを「傍観者効果」と言う。「傍観者効果」とは、ある事件を目撃しても、自分以外の傍観者がいる時に救助を回避する心理である。傍観者が多いほど、傍観者効果は高くなる。
 人は困っている人を目撃すると、助けたいという思いと、面倒なことに巻き込まれたくないという思いが錯綜する。特に大きな事件ほどその葛藤は大きい。自分しかいなければ助けざるを得ない。しかし他者がいれば、自分は助けなくてすむ。このようなことは誰もが考えることである。保身と言えば保身だが、人間の心理である。傍観者効果を生む心理は以下の3つと考えられる。

・多元的無知・・・他者が積極的に行動しないことによって、事態は緊急性を要しないと考えること。
・責任分散・・・他者と同調することで責任や非難が分散されると考えること。
・評価懸念・・・行動を起こした時、その結果に対して周囲からのネガティブな評価を恐れること。

傍観者効果は多くのところで見られる。1991年の東京都内のタクシー乗り場で、騒いでいた少年を注意した男性が殴り殺された。このときも多くの傍観者がいたが誰も助けも警察も呼ばなかった。

傍観者効果と似たものに、
・多数派同調バイアス・・・自分以外に大勢の人がいると、取りあえず周りに合わせようとする心理バイアス(偏り)。
・正常性バイアス・・・異常事態に遭遇したとき「こんなはずはない」これは正常なんだと自分を抑制しようとする心理バイアス(偏り)。

2003年の韓国地下鉄火災事件で200名が死んだが、煙が充満する車内の座席で乗客が平然と座っている写真があり、多数派同調バイアスと正常性バイアスの実例としてあげられる。(詳しくは、ここここを参照)

 傍観者の個々のモラルを責めるだけでは、このような事件は防ぐことができない。集団心理として生じてしまうことであるだけに、システムとしてこれを回避する工夫が必要なのである。


 以上、同調圧力を強化する存在としての傍観者と、その傍観者を生み出す心理について述べてきた。傍観者効果は人間ならば誰にもある心理(おそらく保身)であり、誰でも1度や2度は傍観者になった経験があるであろう。傍観者の存在は集団のカルト化を強化する上で大きな要因である。まさか傍観者がそのような影響を与えているとは思えないからこそ、余計にこの存在が与える意味は大きい。

 カルト化集団にいても、必ずしも常にマインドコントロールされているわけではないし、むしろ普段はいたって普通であることさえある。しかし集団の中でたまに何かおかしな事柄や避けたい事柄(おかしな説教、おかしな運動、いびつな人間関係、陰口、うわさ、個人攻撃、つるし上げ、制裁、いじめなど)があっても、1対1であれば、「それはおかしい」とか「ノー」と言えるのだが、複数の人がいるところでは、なかなか率先して言えないものである。特に傍観者が多いところでは言えずに傍観者になる。傍観者が次の傍観者を生み、傍観者の大量発生となる。事柄の葛藤が大きいほど、また集団が大きいほどそうなる。この心理は既に上で述べたことである。

 今回は同調圧力の中で盲点となりやすい傍観者に焦点を当ててみたが、次はいよいよ同調圧力における支配従属関係について述べてみたい。

続く
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同調圧力 1 [カルト化・マインドコントロール]

そろそろ本題に。

教会のカルト化は集団心理によると述べたが、それはおそらく次の3点に集約されるのだろうと、とりあえず今はそう考えている。

1.同調圧力
2.役割規範の強化
3.自集団に対する過大評価

まず同調圧力について。

同調圧力とは
自らの所属する集団から被る、その所属集団の多数が支持する意見や行動に対し、同調を迫る明示的、もしくは非明示的な圧力。
はてなキーワードより)
同調圧力はカルト集団だけに起こることではなく、およそどんな集団においても大なり小なり発生するものである。

よくあるのは会議である。会議というものは、特に時間が間際になればなるほど、同調圧力が掛かる。教会会議というのものにも同調圧力はある。だから「独裁的な教会運営がカルト化を生み、会議的なものにすればカルト化を防げる」というのは誤解であろう。

アビリーンのパラドックスというものがある。
アビリーンのパラドックスとは、集団が構成員の実際の嗜好とは異なる行動をおこすという状況をあらわすパラドックスである。実際には構成員が望まないことであるにもかかわらず、構成員が反対しないがために、集団が誤った結論を導くという現象である。  ある八月の暑い日、アメリカ合衆国テキサス州で、ある家族が団欒していた。そのうち一人が53マイル離れたアビリーンへの旅行を提案した。誰もがその旅行を望んでいなかったにもかかわらず、皆他の家族は旅行をしたがっていると思い込み、誰もその提案に反対しなかった。道中は暑く、埃っぽく、とても快適なものではなかった。提案者を含めて誰もアビリーンへ行きたくなかったという事を皆が知ったのは、旅行が終わった後だった。  このパラドックスは集団思考の一例として、しばしば用いられる。
wikipediaより)

全会一致の幻想というものもある。
集団思考において、グループの結束を乱したくないという感情からくる自己検閲および「異論が無い事とは賛成を意味する」という間違った認識により全会一致の状況が作られていくこと。


自己検閲。自分に異論があっても、集団の中で他に異論がないように感じたときに、自ら異論を表明することを控えることである。

同調圧力は、多数派同調バイアスとか、斉一性(せいいつせい)の原理などとも言う。集団が異論の存在を許さず特定の方向に進んでいく事を指す。多数決で意思決定を行う場では起こらず、全会一致で意思決定を行う場で起きる。

かつて山本七平が「空気の研究」によって批判した日本の「空気」という化け物。今まさに「KY(空気読めない)」「空気読め!」という言葉となっているが、これもまた同調圧力である。

このような同調圧力は大なり小なり普通の集団においても起こっている。カルト化集団の場合も普通の同調圧力となんら変わることは無い。ただカルト化の場合、同調圧力は常に「リーダーの意向」や「組織の意向」に沿う方向に働く。なぜそうなるかについては、後日、「役割規範の強化」と「自集団に対する過大評価」のところで述べるつもりである。


同調圧力のメカニズムについて

同調圧力とは社会心理的なシステムの問題である。あくまでも組織、集団の問題である。同調圧力が起こるには、「同調圧力を発する人」と「同調圧力を感じる人」の両方が必要である。そして同調圧力を感じる人々は、やがて同調圧力を発する人になる。

同調圧力に関しては、以下の記事が有益なのでお勧めする。「社会的な集団状況における『同調圧力(集団圧力)・役割行動規範』と『個人の判断基準』との葛藤

まず同調圧力を感じる人々について。
そこにあるとおり、大勢に逆らってまで自分の意見を述べるには、不利益をこうむるかもしれないという恐れを克服せねばできず、相当勇気のいることである。そしてカルト化集団では非難・制裁・いじめにあうかもしれないというのは実に迫った恐れである。だからなおさら自己検閲し同調圧力が高くなるのである。(ところで、だったらなぜ抜け出さないのか、という疑問があると思うが、それは「自集団に対する過大評価」というところで述べたい)

もうひとつ同調圧力が起こる要因として、集団への協調性である。しばしば「自分を否定して」まで全体に強調することに、一種の自己肯定感が生まれる。自己犠牲の精神であったり、自分は組織を愛しているとまで思ってしまう。これがカルト化では著しい。

次いで同調圧力を発する人々について。
 集団の同調圧力に逆らって個人の意見を殊更に主張すれば、『あいつさえわがままを言わずに黙っておけば万事順調に進むのに(今まで通りの慣例や常識に従っておけば余計な波風が立たないのに)』という形の非難や反発を発する。発し方は必ずしも明確な発言としてではなく、ひそひそ声、視線、態度、そして陰口という形で発生する。


同調圧力には積極的な同調と消極的な同調がある。

積極的な同調とは、集団の一致や同調を善とする価値観から生まれる。議論を嫌い、みんな一緒に、波風立たず、万事円満であることを善とする価値観である。こういう価値観が強いところでは同調圧力が強まっていく。良かれと思って同調圧力を生むのである。これが同調圧力の正の力となる。

消極的な同調とは、集団の不一致や対立などによる疲弊を経験した人々によって生じるものである。うんざりしている。あるいは常に時間に追われていたり、多忙感があり、リーダーや組織の意向に疲れているとき。こういった時に負の力として同調圧力が働く。カルト集団では実際かなりの人が集団に疲れていることもあり、このような負の同調圧力が下支えしている。


こうして集団内の各人が、互いにけん制し、勝手に察し、妙な「空気」が発生する。これがカルト化教会にある、あの何とも言えないけれども漂う「空気」である。

カルト化集団においては、さらに誰も頼んでいないのに、リーダーや組織が好むであろうと発言までしてしまうのである。頼んでもいないのに勝手に取り巻きや犬が生まれてくる。そしてバスに乗り遅れるなとばかりに次々と犬が生まれてきたら、その集団はかなり深刻である。

ところで、その集団の同調圧力はその集団内に属しているときに起こるものである。たとえばAさんという人がいたとする。AさんはXというカルト化している集団に属している。この集団Xは同調圧力が非常に高い。Aさんも集団Xにおいては同調圧力を発したり、同調圧力を感じたり、自己検閲をしたり、自薦の用心棒となったりする。しかしAさんは別の集団Y(たとえば職場)にも属しているし、集団Z(たとえば自治会)にも属している。集団Yも集団Zも同調圧力がほとんど無いとする。Aさんは集団Yや集団Zにおいては同調圧力を発したり感じたり自己検閲することは無い。たとえばこういうことである。

続く
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雑考3 カルト化による被害 [カルト化・マインドコントロール]

教会のカルト化は集団心理であると前回書いた。そのメカニズムや対処について考えるのは後回しにして、カルト化においてどういった被害が発生しているのかをメモしておく。

世間において、カルト化が周囲に露見されるのは、性的逸脱(セクハラ)、暴力、金銭問題によってである。しかしこういった不祥事はカルト化被害の一部あって、というか、こういった問題が露見した頃には相当事態が深刻化していたのであって、たとえこのような問題が露見しなくても、あるいはこういった問題がなくても、教会のカルト化による被害者はいるのである。

カルト化の被害
・非難、制裁、いじめによる肉体的精神的苦痛
・特に排斥の恐怖による心的外傷
・個人と組織の葛藤によるストレス性障害
・社会不安障害
・人間不信
・信仰の破壊
・精神の退行
・家庭の崩壊
・近隣トラブル
・性的逸脱、暴力、金銭問題

性、暴力、金は犯罪行為であるので問題の客観性がある。しかしそれ以外は主に本人の内側の被害であって、それゆえ問題が潜在化する。被害者も、リーダーや組織を責めるよりも、自分を責めるだけである。リーダーや組織を疑ったり非難すると罪意識を感じてしまい、二重に苦しむ。なお性的逸脱、暴力、金銭問題にも精神的な被害、信仰の破壊、家族の崩壊が伴うことは言うまでもない。

カルト化の被害は、個人攻撃という形で現れる。カルト化している集団においては、教会のあり方に対して批判しただけで、「リーダーの指導に不従順な人」「教会の一致を乱す人」「サタンの手先」といった非難がなされ、制裁を受ける。時には内部一致を高めるためだけのスケープゴートとしてのいじめもありうる。もちろん、カルト化教会が普段からこうなのではない。普段は普通そうに見える。そしてこういったことは教会の中で普段は目立たない。そしてすべての者が深刻な被害をこうむるというわけではない。


これを読んでいて、普通の教会にさえ人が行かなくなったら、それは私にとっても不本意である。なので、念のため次のことを記しておく。

教会のカルト化被害というものは、普通の教会にとってはあまり関係の無い問題だろうと思う。「どの教会にも問題がある」という言い方があるが、そういう問題と教会のカルト化はやはり区別されるべき事柄である。

普通の教会であれば、仮にカルト化の小さな芽が生えたとしても、それは正されていくものである。しかし中には正されず、温存され、強化されていく教会(集団)がある。それはどのようにしてなのか。それは今後の記事に譲るとして、とりあえず今言えることは、「自分にもカルト化の危険性があるかもしれない」そう思っているところではカルト化は起こりにくいだろうと思う。自動車事故と似ていて、油断・過信・思い込みが事故を招く。
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