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卞在昌事件 水戸地裁土浦支部 無罪判決 [ハラスメント]

東京新聞 2011年5月20日夕刊
 教会で女性信者に乱暴したとして準強姦(ごうかん)罪に問われた韓国籍のキリスト教牧師卞(ビュン)在昌(ジェーチャン)被告(62)=茨城県土浦市=の判決公判が二十日、水戸地裁土浦支部であり、神田大助裁判長は「女性の証言の信用性は否定せざるを得ない。事実を認定すべき証拠は存在しない」として無罪(求刑懲役七年)を言い渡した。検察が主張する犯行日の二〇〇七年二月十七日の卞被告のアリバイが争点となった。判決では、被告は韓国から来日した宣教師らと自宅にいたとする被告側の主張について「宣教師のデジタルカメラで撮影した写真の日時の記録や出入国記録、宿泊したホテルの予約などから客観的に裏付けられる」と認定。一方、デジカメの画像データは改ざんされたとする検察側の指摘について「撮影日時が改ざんされたことを疑わせる事情は何ら存在しない」とした。女性の証言は「不自然ないし不合理さを否めない点が少なからず存在する」と信用性を否定した。起訴状などによると、卞被告は国際福音キリスト教会主任牧師だった〇七年二月、当時信者だった二十代女性に対し「私に従わなければ悲惨な人生を歩む」などと説教して女性を信じ込ませ、つくば市内の教会で抵抗できない状態にさせて乱暴したとされる。閉廷後、卞牧師は「助けてくれた人に心から感謝する。無罪は当然という気持ち」と神妙な面持ちだった。一方、女性の支援団体「モルデカイの会」の加藤光一代表(65)は「残念な結果。密室の被害なので証明するのが難しいと実感した。検察には控訴してほしい」と訴えた。猪俣尚人・水戸地検次席検事の話 判決を詳細に検討し、上級庁と協議の上、適切に対応したい。

まさかとは思ったが、本当にまさかであった。しかし無罪判決が出てしまう可能性もあったので前回の記事では念のため予防線を張っておいたのだが、それにしてもまさか無罪判決が出るとは思っていなかった。「裁判所は真実を明らかにする場ではない」とよく言われるが、まさしく今回ほどそう思わされたことはない。このような判決が出て被害者および関係者はどれほど無念であろうか。察するにあまりある。判決についての論評は次の機会にしたい。

K元牧師性加害事件検証報告(日本ホーリネス教団) [ハラスメント]

「K元牧師性加害事件検証報告」(3/21)が日本ホーリネス教団のHPに掲載中。

小牧者訓練会・卞在昌に検察懲役7年求刑 [ハラスメント]

毎日新聞 2011年3月5日 地方版より
つくば市に拠点を置くキリスト教系宗教法人「小牧者(しょうぼくしゃ)訓練会」の信者だった20代女性に性的暴行をしたとして、準強姦(ごうかん)罪に問われた韓国籍の同会牧師、卞在昌(ビョンジェチャン)被告(62)=土浦市=の論告求刑公判が4日、地裁土浦支部(神田大助裁判長)であり、検察側は「自分の性欲を満たすために被害者の純粋な信仰心を利用した卑劣極まりない犯行」と懲役7年を求刑した。判決は5月20日に言い渡される。これに対し弁護側は「犯行がなかったことには、一点の曇りもない」と無罪を主張した。最終意見陳述で卞被告も「わいせつ行為は一切行っていない」と述べた。起訴状によると卞被告は07年2月、つくば市の教会の寝室で女性に性的暴行を加えたとしている。これまでの公判で女性は、同2月17日、同会施設内の牧師室で卞被告から「必要なのは信頼関係で、夫婦のような関係だ」と言われ「拒めば神様に見放される」という恐怖心から、精神的に抵抗できない状態で性的暴行を受けたと証言した。これに対し弁護側は「卞被告は2月17日に韓国の宣教師を接待していたので、寝室で女性と一緒にいたことはありえない」と主張、この宣教師が撮影した写真や証言をもとに、卞被告には「アリバイがある」とした。これに対し検察側は写真にある日時などのデータには、改ざんの可能性があるとしている。【橋口正】

なお、準強姦罪とは、暴行・脅迫によらず、女性の心神喪失・抗拒不能に乗じ、又は女性を心神喪失・抗拒不能にさせて姦淫すること(刑法178条2項)。強姦が力ずくによる姦淫であり、準強姦は抵抗できない状態の女性を強姦することである。「準」の文字がつくからといって、準強姦罪が強姦罪より軽いという意味ではまったくない。準強姦罪の量刑の適用範囲等は強姦罪と同じである。なお強姦罪と強制猥褻罪の違いは各自参照のこと。

ところで、刑事訴訟においては、たとえ被告がクロであっても、有罪が立証されなければ無罪とされる。したがって、もし万一、5/20に無罪判決が出たとしても、被告が無実であることを必ずしも意味するわけではない、ということは押さえておくべきである。

(3/6追記。民事裁判では被告が有罪であっても、検察が不起訴処分にしたり、あるいは起訴しても刑事裁判で無罪になることがある。これは刑事裁判と民事裁判の違いによる。たとえば1993年の藤沢放火殺人事件。当初検察は嫌疑不十分で不起訴処分とした。しかし被害者遺族が民事訴訟を起こし、民事裁判で殺人認定を得た。そこから逆に刑事訴訟が起こった。だが1審では立証できず無罪判決。そして上告し2審で有罪となった。このように刑事と民事では判決が異なることがある。刑事と民事の違いを単純に説明すれば、刑事裁判では「疑わしきは被告の利益」で、一方民事裁判は、原告と被告の証拠の優劣によって決まる、ということ。したがって、誤解を恐れず言うならば、刑事裁判はクロでも無罪になることがあるが、民事裁判ではクロならば有罪となる。上述の、「刑事裁判では被告がクロでも立証できなければ無罪とされる。」とはそういうことである。「刑事裁判で無罪となったからといって無実というわけではない」と言ったのはそういう意味である。)

(3/7追記。電車痴漢の話があったので、ここで電車痴漢と本件の違いについて説明を加えておく。まず電車痴漢の冤罪は、人違いか、あるいは、接触の思い込みによる。人違いとは、電車内には不特定多数の乗客が存在するために、たまたま近くにいた無実の人を行為者として誤ってしまうことである。接触の思い込みとは、混雑した車内において偶発的な身体接触を痴漢と思い込むことである。一方、本件の場合。被告以外の被疑者は存在しないので人違いはない。また本件は軽犯罪でも準強制わいせつ罪でもなく、準強姦罪である。強姦は意図的であり、偶発的な強姦はない。このように本件は電車痴漢とは大きく異なる。したがって、もし仮に本件が冤罪だとすれば、被害者の訴えが虚偽であるという以外にありえない。被害者の訴えが虚偽かどうかについて私の立場から述べることはできないけれども、少なくとも複数の女性被害者が存在するということから訴えが虚偽の蓋然性は低いと言える。)
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「アウェイよりホーム」支配欲を満たそうとする思い [ハラスメント]

「きっと密会・不倫現場はアウェイよりホームがいいのだろう」(命と性の日記、「権力者たちの密会現場が意味するもの」より)

おそらく読者の皆さまは既にお読みになっているとは思いますが、一昨日の「命と性の日記」の記事は多くのクリスチャンブロガーによって引用されていることでしょう。それほど秀逸な記事です。
某国家公安委員長と某小学校校長という熟年権力者男性二名による女性スキャンダル。その場所はそれぞれ議員宿舎と校長室というホームを利用している点で共通していることを指摘。さらにイスラエル王ダビデやクリントン大統領の事件、そして聖職者らによる性的不祥事もすべて「アウェイよりホーム」である点を指摘しております。
指摘されるまで全く気がつきませんでしたが、確かにすべてホームで行われております。

さらにそこから支配欲を満たそうとするという点も指摘しております。ここ重要です。支配欲。これがカルト化の要因でもあり、またハラスメントの要因でもあります。


キリストの福音により支配欲はきよめられていくはず。しかし、それがなぜか権力ある地位に着くと、きよめられるどこから一層支配欲が増してしまう。支配欲という罪を足場として、そこに悪魔的な力が働くのでしょう。

イエスさまは40日間の荒野においてサタンから権力欲(支配欲)の誘惑を受けましたが、打ち勝たれました。そしてそれは荒野の出来事だけではなくご生涯すべてに見られるものであり、わけても十字架がそうであります。

そういう意味では権力欲(支配欲)を満たそうとする生き方はイエスさまの十字架の生き方とは正反対と言わざるを得ませんね。



ところでなぜ、アウェイよりホームを選ぶのか。ご指摘の支配欲の満たしのほかがあるとするなら、たぶん安心感もあるのではと思いました。権力者は普通の人以上に怖がりであり、案外臆病なのでは。それにそういうスキャンダラスのことをしながら、そのために今の地位と名誉を失いたくないために慎重になっている。だら、何が起こるかわからないアウェイよりもかって知るホームの方が安心だと考えているのかもしれません。何も失う恐れのない無鉄砲な人間ならアウェイだろうがぶどう畑だろうがかまわずかような行為に励むのでしょうが・・・
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小牧者訓練会のパワハラ3 [ハラスメント]

(3)継続性(頻繁さ)
陰湿な嫌がらせを再三受けて(「事案の概要」より)
小牧者訓練会のパワハラが頻繁に行われていることが被害者側から訴えられています。同様の継続性(頻繁さ)は、たとえばハレルヤコミュニティーチャーチ浜松教会の榊山清志牧師によるセクハラ・暴力事件に対する静岡地裁浜松支部の判決文(2008年5月19日)においても以下のように認められています。
しつけと称して,こたつの脚,フライパン,ドラムのステイックなどで腎部や足の裏を叩いたり,素手で顔を叩いたりといった暴力を日常的に加えていた。(判決文中の「当裁判所の判断」より。下線は引用者による)
(なお榊山氏に関する判決では暴力・セクハラの事実は認められたものの、時効を理由に損害賠償請求は却下されました。詳しくは判決文をご覧ください。)

パワハラの判断基準に、その行為の継続性(頻繁さ)があげられます。以下、涌井美和子『職場のいじめとパワハラ防止のヒント』より該当部分を引用します。
パワー・ハラスメント判断基準;その2 時間的経過について  行為の発生過程と頻度;身体的暴力など,たった1回でもパワー・ハラスメントに該当する可能性があるものもあるが,多くは,何度か繰り返されるうちにパワー・ハラスメントになる可能性が高くなる。とくに,単発的に繰り返されるのではなく,だんだん強迫的あるいは執拗に繰り返されるようになっていたり,行為者が支配的になっていったり,苛立ちがみられるようになるなど,時間の経過とともに,質や内容が変わっているのであれば,パワー・ハラスメントに該当する可能性が高くなる。(「第1章 パワー・ハラスメントとはどのような行為か」26ページより)
(なお本書では、パワハラの判断基準が4つ示されております。本書はパワハラを理解する上で有用です。いずれ機会があれば本ブログでも取り上げたいと思います。)

涌井氏が示した判断基準の説明から次の2つのことが言えます。いずれもパワハラというものの性質からきております。

1つはパワハラというものが必ずしも直接的な身体的暴力によらないということです(そもそもパワハラという概念は、暴力では捉えきれない被害を概念化する必要から生まれました)。直接の身体的暴力があれば傷害事件となりますが、そうでない場合は程度問題とされ、第三者から見てもその判断が非常に難しくなります。したがって明らかに悪質なものを除けば、1度の言動だけをもってしてパワハラと判断することは非常に難しくなります。しかし繰り返しなされるなら、それはパワハラと認定される可能性が高いということです。

2つめは、そもそもなぜパワハラは繰り返し行われるかという点です。加害者の心理は様々であり、加害者の自覚の程度もまちまちですが、加害者は被害者を自分に服従させたいという動機が根底にあることはだいたい共通しております。加害者はより支配を強める方向に行為をエスカレートしていきます。やがて被害者を自分の意のままに支配することに限界を感じたり被害者が防衛的になると、加害者は被害者を破壊と抹殺(いわゆる排斥)するようになります(涌井、18ページ)。このように、パワハラとはよりエスカレートし、内容も変化することが多いものです。ただし必ずしもすべてが時系列に沿って深刻化するとは限りませんので個々の事例について判断する場合は注意が必要です。要は、パワハラとは、その性質上、一度限りで終わることではなく、頻繁に繰り返されるものである、ということです。
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小牧者訓練会のパワハラ2 [ハラスメント]

(2)適正な範囲の超過

上位者の下位者に対する言動が、果たして適正な範囲のものであるかどうか。これがパワハラ判断基準の一つであるといえます。ただし、その言動が適正な範囲を越えていると感じるかどうか「する側」と「される側」では大きく異なります。パワハラをする側は、自分の言動は適正の範囲内にあると思っているでしょう。たとえ度を越したとしても、「少々やりすぎたかもしれないが、これぐらいは普通だ」と自分を納得させるでしょう。一方「される側」にとっては、適正な範囲にあるとは思えないでしょう。ただし、マインドコントロールの下にあるならば「される側」もこれは正しいことだと納得しやすくなります。これが一般社会におけるパワハラよりも深刻化させる原因になっています。教会においては、いじめや人格攻撃ということはそもそもありえないものですが、マインドコントロールの下にある教会では、いじめや人格攻撃が「訓練」の名の下に正当化されてしまいます。

小牧者訓練会でのパワハラ被害の事例を見てみましょう。内容は「被告Xの不法行為(その1)」(モルデカイの会による)に基づいております。それによれば、スクワット200回密室での延々とした脅し寮生や外国人牧師の面前での罵倒深夜の呼び出し怒鳴りつけ、が具体的事例としてあげられています。詳細は当該記事をお読みください。被害者からすれば、まったく理不尽な行為であり、第三者的に見てもこれが適正の範囲をはるかに超えていることは明白です。

被害者(伝道師)は当初は加害者(上位教職者)に抵抗は示すものの、徐々に逆らうことができず、ただただ恐怖心を抱くようになり、無抵抗となっていきました。典型的なカルト化教会におけるパワハラ被害と言えるでしょう。
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小牧者訓練会のパワハラ [ハラスメント]

具体的にカルト化教会におけるパワハラ被害の実態について見ていきたいと思います。ただ、一般の会社におけるパワー・ハラスメント(パワハラ)被害の実態については本やネットで知ることができますが、教会におけるパワハラ被害の実態についてはほとんど公にされておりませんので実態がつかみにくいのが実情です。このような状況においては、パワハラ訴訟の存在は実態把握の参考になります。去る2009年12月15日に、宗教法人小牧者訓練会におけるパワハラに対する民事訴訟がありました。またその概要が原告支援側(モルデカイの会)によりネット公開されています。公開されたこの概要は教会におけるパワハラの実態をつかむために貴重な資料となります。教会におけるパワハラ被害の一つのケースと言えます。

パワハラ訴訟(不法行為等を理由とする損害賠償請求)の事案概要(モルデカイの会)

以下、この概要を中心に取り上げてみます。なお、この内容は原告側(被害者側)に立った内容です。当然、被告側(加害者側)からの反論もあるでしょう。あるいは被害者証言のみを取り上げることへの批判もあるかもしれません。ただ、本記事の関心は裁判にではなく、あくまでもパワハラ被害の実態を知ることにありますから、その点に関して言えば、被害者側の訴えを取り上げるだけで十分であると考えられます。
プロテスタント系キリスト教団小牧者訓練会(宗教法人)の創立者で教団と 下部組織の国際福音キリスト教会の主任牧師だった被告卞は、霊的指導者の自分は 絶対的権威と説いて指導原理とし、自分に服従している上位教職者の指揮命令にも 下位教職者は絶対に服従しなければならないとの教義を教団に浸透させた。 そうした環境の教団に雇用され伝道師となった原告は、教義に忠実な上位教職者の 被告Xから、陰湿な嫌がらせを再三受けて自律神経失調症を発症、その後、被告卞は、 原告の病状を知りながら、咎め、「鬱には肉体労働がさいこう(ママ)」などと 原告に肉体労働や事務労働を無給で強制し、日常的にメールや口頭で暴言を 浴びせるなどの抑圧を繰り返して、2ヶ月も経たないうちに、原告の症状は 一気に統合失調症まで悪化した。原告は労働能力の多くを奪われたが、 主任牧師や上位教職者を責めてはならないとの教義による心理的抑圧で被害を 訴えることは許されないと思い込まされていた。(「事案の概要」より)

この概要をパワハラの要件に照らして見てみましょう。
(1)力関係の利用
(2)適正な範囲の超過
(3)継続性
(4)人権侵害、精神的・肉体的苦痛、職場環境の悪化

まず(1)の力関係の利用に関して言えば、上位教職者(被告Ⅹ)と下位教職者(伝道師、原告)という明らかな力関係があります。さらに小牧者訓練会ではこの力関係をより強化する方向に教団内の空気をもっていっております。具体的には下位教職者は上位教職者に絶対に服従しなければならないとの教義を教団に浸透させていたことにあります。そしてより重要なことは、下位教職者が上位教職者に服従しなかった場合、下位教職者自身が罪意識を抱いてしまうことにあります。ここが会社におけるパワハラと大きく異なる点です。会社の場合も下位者が上位者に従わない場合、減給や解雇といった不利益を被る恐れがあるわけですが、教会におけるパワハラの場合は、深刻な罪意識を抱くことによって、より精神的苦痛を被ることになります。教会におけるパワハラ被害の方が会社のパワハラよりもより深刻な精神的ダメージを受けるといってよいでしょう。
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ダブルバインドとパワー・ハラスメント [ハラスメント]

ダブルバインド
互いに矛盾するメッセージ(一次的メッセージと二次的メッセージ)を発することによって、相手を混乱させて身動きをとれなくさせるもの。二重拘束ともいう。
例1:
Aさんは、あるとき上司から、「こういうことは事前に相談しろ!」と怒鳴られた(一次的メッセージ)。 それで、Aさんは、次に上司に相談に行った。 ところが今度は上司から「そんな話までいちいち俺にもってくるな。そんなこともお前は自分で判断できんのか!」(二次的メッセージ) とまた怒鳴られた。
これがダブルバインドである。Aさんは上司に相談してもしなくても、どちらを選んでも、立場が悪くなる。Aさんが相当、精神的苦痛をこうむっていることは想像に難くない。こういったことが繰り返されると、パワー・ハラスメントと認定される。

この事例では一次的メッセージも二次的メッセージも、語句通り矛盾していた。これとは別に、二次的メッセージがメタメッセージや非言語的メッセージとして、言語とは異なる次元で矛盾している場合もある。

例2:
母親が子どもを幼稚園に登園するために連れてっている。 母親「わたしから離れちゃダメよ!」(一次的メッセージ)と言っておきながら、 子どもが母親の近くに来ると、すごく嫌そうな態度を示す(二次的メッセージ)。 子どもは母親の言葉に従うことができない。
これもダブルバインドである。この場合には二次的メッセージは非言語的メッセージである。こういう場合は、自分が矛盾していることに気づかないものである。

ダブルバインドは、ある種の支配従属関係の中で生じる。上司と部下、教師と生徒、親と子、主任牧師と教会スタッフなど。そしてほとんどの場合、上位者は自分がダブルバインドを発していることに気付いていない。

上位者がダブルバインドを発するのは無意識のうちにであるが、その根底には権力で下位者を従わせようとするときに起こる。支配欲の強い者、短気な者、自己正当性の強い者にダブルバインドは生じやすい。

支配従属関係において上位者が自分の都合や気分で下位者に命令を発するとき、かなりの頻度でダブルバインドが生じていることが予想される。例1も例2も、いずれも本人は無意識に発しているのである。下位者にとって上位者のどのメッセージ従えばよいのか、その判断基準は、ただ上位者の気分に左右されるので、下位者は自律的にそれを判断することができない。それでダブルバインドに陥る。

ダブルバインドに陥ったとき、下位者は次のような反応をとるようになる。
(1)上位者の顔色を伺うようになる。
(2)上位者の一挙手一投足にびくつく。
(3)上位者の言葉の裏を推測するようになる。
(4)上位者とのコミュニケーションに恐れ、逃避したくなる。
など。これらが複合的にからむ。ダブルバインドそれ自体でもかなりきつい上に、上記の反応が加わるので、精神的負担がものすごく大きい。

なお、カルト化やパワー・ハラスメントについて「コミュニケーションをもっととればいい」という人がいるが、ダブルバインドが頻繁に発生している環境下では、コミュニケーションそのものが緊張を生んでいるので、コミュニケーションを取ることは、もはや解決にならない。

もし自分の上位者がダブルバインドを頻繁に発するような人間である場合、もっともよい解決方法は、その上位者の支配から逃げることである。しかし逃げることのできない関係もある。また逃げを禁じている場合もある(第三次禁止命令)。そして逃げることに罪悪感や恐怖を感じる場合もある。カルト的な集団の場合特にこれが強い。
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パワー・ハラスメントは加害者や被害者の個人的問題か? [ハラスメント]

教会のカルト化の記事においても一部記したが、問題の原因は集団心理として働いている部分が大きく、したがってすべての問題を個人の問題に還元することができない。そのことを職場のハラスメントの参考資料を引用して紹介したい。

教会におけるパワー・ハラスメントを考える上で、職場におけるパワー・ハラスメントの事例と対応が先駆的であるがゆえに参考になる。

以下、労働ジャーナリストで職場のハラスメント研究所所長の金子雅臣氏による『知っていますか?パワー・ハラスメント一問一答』(解放出版社、2004年)より、すこし長いが引用する。

パワー・ハラスメントは加害者や被害者の個人的問題か?について
・・・いじめは決して特別な問題ではないにもかかわらず、何か自分たちとは関係のない特別な事件であることを確認しないと落ち着かないということがあるようです。・・・これでは職場で起きている本当のことが理解できません。  パワー・ハラスメントの典型であるセクハラも当初は・・・加害者の個人的な判断による行為、または上司の個人的性癖とされることで、本当の原因についての理解が遅れてきました。性差別的な意識や職務の権限を背景にして起こる問題であるにもかかわらず、そうした見方は無視され続けてきたのです。  そして、勇気を出して訴えてみても、裁判では長い間、「たまたま、そうした性癖をもった上司からの性的な誘いを受けた」とされてきたのです。実はこうした見方は、いまの日本でも容易に受け入れられ、パワー・ハラスメントを訴えようとする被害者にとって大きな障害となっています。  「やられるほうにもスキがある」「いじめを上手にかわしてこそ一人前の大人」「どこにでも嫌な人や気の合わない人はいる」などとすべて個人的な責任とされるため、多くの被害者が訴えることを断念し「泣き寝入り」してきたのです。  また一方、パワー・ハラスメントの加害者の中には、「そんなつもりはなかった。相手がそんなに傷ついているとは知らなかった」と言う人がいます。「足を踏んでいる人は、踏まれている人の痛みが分からない」といいますが、自分が気づかないうちに相手を傷つけてしまっており、相手の立場を考えることができなくなっているのです。  パワー・ハラスメントは、職場の上下関係や仕事の流れの中で職務と強く関連し、加害者自身それと気づかずに起こしていることも多いのです。  パワー・ハラスメントは、決して個人的な問題ではありません。職務上の立場と大きなかかわりをもって起きる問題であり、被害者の立場からみると、職場での立場や力を利用して人を傷つける差別的な行為であるといえます。

すべての上司がパワーハラスメントをするわけではないが、すべての上司がパワーハラスメントを犯す危険性はある。教会においても同様のことが言えるだろう。
 上記のことは「職場」を「教会」に変えるだけで、そのまま教会におけるパワー・ハラスメント被害に当てはまる。
 パワー・ハラスメントは加害者や被害者の個人的問題とはできないのである。
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パワー・ハラスメントとは [ハラスメント]

教会のカルト化の被害のひとつにパワー・ハラスメントがある。パワハラと略されることも多い。

「パワー・ハラスメント」という言葉は元来は「職場の力関係を利用したハラスメント(いじめ、嫌がらせ)」を指していた。やがて職場に限らず宗教団体・組織でも同様のことが見られるのではないか、ということで広く使われるようになっている。教会のカルト化においてもパワー・ハラスメントの被害は見られる。


パワー・ハラスメントの定義についてはいくつか試みられている。

まずは(株)クオレ・シー・キューブ代表の岡田康子氏の定義。
岡田氏は日本において先駆的にこの問題を取り扱ってきた。この問題をパワー・ハラスメントと命名したのも岡田氏である。
岡田氏によるパワー・ハラスメントの定義は、
職権などのパワーを背景にして、本来業務の適正な範囲を超えて、継続的に、人格や尊厳を侵害する言動を行い、就労者の働く環境を悪化させる、あるいは雇用不安を与えること。
とされる。

また「職場のハラスメント研究所」所長の金子雅臣氏による定義は
職場において、地位や人間関係で弱い立場の相手に対して、繰り返し精神的又は肉体的苦痛を与えることにより、結果として働く人たちの権利を侵害し、職場環境を悪化させる行為。


定義の意図するところや概念はほぼ同じである。

・力関係の利用
・適正な範囲の超過
・継続性
・人権侵害
・精神的苦痛または肉体的苦痛
・職場環境の悪化
これらが上げられる。

上記のポイントを真似て、教会のカルト化におけるパワーハラスメントを定義してみると、
「教会において、力関係を背景として、教会の本来的なあり方を超えて、精神的又は肉体的苦痛を与え、結果的に人格や尊厳を侵害する行為、また教会内の環境を悪化させる行為。」となろうか。


さて力関係の利用という点で言えば、上位者から下位者への流れがパワーハラスメント要素の一つである。
これが逆の場合にはパワー・ハラスメントとは言わないだろう。

たとえば、下図をごらんいただきたい。
ph1.JPG上司から部下へ

ph2.JPG部下から上司へ

両者は似ているけれども同じではない。
力関係のゆえに、部下は上司の依頼を受け付けないという選択は不可能である。しかし上司は部下の依頼を受け付けないという選択も可能である。この場合、部下から上司への仕事の依頼をパワーハラスメントとは言わないだろう(ただし部下が実は社長の息子であったとか、ある種の力関係があるなら話は別である)。

むろん、上司からの依頼がすべてパワー・ハラスメントというわけではない(そこは誤解のないように願いたい)。
パワー・ハラスメントの判断には仕事の適正さ、継続性、人間関係、職場環境、労基遵守度合いなども勘案されなければならない。

ある種の力関係において、下位者は不適正な事柄であってもそれに抗うことが出来ないということが、パワーハラスメント要素の一つである。
(続く)
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