伊那谷牧師の雑考2.0
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いわゆる「教会のカルト化」、マインド・コントロール、社会心理学、権威主義、ハラスメントなどについて特化したブログ。
inadaniboxi
2011-05-20T15:13:19+09:00
ja
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卞在昌事件 水戸地裁土浦支部 無罪判決
https://inadaniboxi.blog.ss-blog.jp/2011-05-20
東京新聞 2011年5月20日夕刊 教会で女性信者に乱暴したとして準強姦(ごうかん)罪に問われた韓国籍のキリスト教牧師卞(ビュン)在昌(ジェーチャン)被告(62)=茨城県土浦市=の判決公判が二十日、水戸地裁土浦支部であり、神田大助裁判長は「女性の証言の信用性は否定せざるを得ない。事実を認定すべき証拠は存在しない」として無罪(求刑懲役七年)を言い渡した。検察が主張する犯行日の二〇〇七年二月十七日の卞被告のアリバイが争点となった。判決では、被告は韓国から来日した宣教師らと自宅にいたとする被告側の主張について「宣教師のデジタルカメラで撮影した写真の日時の記録や出入国記録、宿泊したホテルの予約などから客観的に裏付けられる」と認定。一方、デジカメの画像データは改ざんされたとする検察側の指摘について「撮影日時が改ざんされたことを疑わせる事情は何ら存在しない」とした。女性の証言は「不自然ないし不合理さを否めない点が少なからず存在する」と信用性を否定した。起訴状などによると、卞被告は国際福音キリスト教会主任牧師だった〇七年二月、当時信者だった二十代女性に対し「私に従わなければ悲惨な人生を歩む」などと説教して女性を信じ込ませ、つくば市内の教会で抵抗できない状態にさせて乱暴したとされる。閉廷後、卞牧師は「助けてくれた人に心から感謝する。無罪は当然という気持ち」と神妙な面持ちだった。一方、女性の支援団体「モルデカイの会」の加藤光一代表(65)は「残念な結果。密室の被害なので証明するのが難しいと実感した。検察には控訴してほしい」と訴えた。猪俣尚人・水戸地検次席検事の話 判決を詳細に検討し、上級庁と協議の上、適切に対応したい。まさかとは思ったが、本当にまさかであった。しかし無罪判決が出てしまう可能性もあったので前回の記事では念のため予防線を張っておいたのだが、それにしてもまさか無罪判決が出るとは思っていなかった。「裁判所は真実を明らかにする場ではない」とよく言われるが、まさしく今回ほどそう思わされたことはない。このような判決が出て被害者および関係者はどれほど無念であろうか。察するにあまりある。判決についての論評は次の機会にしたい。
ハラスメント
inadaniboxi
2011-05-20T15:13:19+09:00
東京新聞 2011年5月20日夕刊
教会で女性信者に乱暴したとして準強姦(ごうかん)罪に問われた韓国籍のキリスト教牧師卞(ビュン)在昌(ジェーチャン)被告(62)=茨城県土浦市=の判決公判が二十日、水戸地裁土浦支部であり、神田大助裁判長は「女性の証言の信用性は否定せざるを得ない。事実を認定すべき証拠は存在しない」として無罪(求刑懲役七年)を言い渡した。検察が主張する犯行日の二〇〇七年二月十七日の卞被告のアリバイが争点となった。判決では、被告は韓国から来日した宣教師らと自宅にいたとする被告側の主張について「宣教師のデジタルカメラで撮影した写真の日時の記録や出入国記録、宿泊したホテルの予約などから客観的に裏付けられる」と認定。一方、デジカメの画像データは改ざんされたとする検察側の指摘について「撮影日時が改ざんされたことを疑わせる事情は何ら存在しない」とした。女性の証言は「不自然ないし不合理さを否めない点が少なからず存在する」と信用性を否定した。起訴状などによると、卞被告は国際福音キリスト教会主任牧師だった〇七年二月、当時信者だった二十代女性に対し「私に従わなければ悲惨な人生を歩む」などと説教して女性を信じ込ませ、つくば市内の教会で抵抗できない状態にさせて乱暴したとされる。閉廷後、卞牧師は「助けてくれた人に心から感謝する。無罪は当然という気持ち」と神妙な面持ちだった。一方、女性の支援団体「モルデカイの会」の加藤光一代表(65)は「残念な結果。密室の被害なので証明するのが難しいと実感した。検察には控訴してほしい」と訴えた。猪俣尚人・水戸地検次席検事の話 判決を詳細に検討し、上級庁と協議の上、適切に対応したい。
まさかとは思ったが、本当にまさかであった。しかし無罪判決が出てしまう可能性もあったので前回の記事では念のため予防線を張っておいたのだが、それにしてもまさか無罪判決が出るとは思っていなかった。「裁判所は真実を明らかにする場ではない」とよく言われるが、まさしく今回ほどそう思わされたことはない。このような判決が出て被害者および関係者はどれほど無念であろうか。察するにあまりある。判決についての論評は次の機会にしたい。
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K元牧師性加害事件検証報告(日本ホーリネス教団)
https://inadaniboxi.blog.ss-blog.jp/2011-03-26
「K元牧師性加害事件検証報告」(3/21)が日本ホーリネス教団のHPに掲載中。
ハラスメント
inadaniboxi
2011-03-26T08:46:12+09:00
日本ホーリネス教団のHPに掲載中。
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小牧者訓練会・卞在昌に検察懲役7年求刑
https://inadaniboxi.blog.ss-blog.jp/2011-03-05
毎日新聞 2011年3月5日 地方版よりつくば市に拠点を置くキリスト教系宗教法人「小牧者(しょうぼくしゃ)訓練会」の信者だった20代女性に性的暴行をしたとして、準強姦(ごうかん)罪に問われた韓国籍の同会牧師、卞在昌(ビョンジェチャン)被告(62)=土浦市=の論告求刑公判が4日、地裁土浦支部(神田大助裁判長)であり、検察側は「自分の性欲を満たすために被害者の純粋な信仰心を利用した卑劣極まりない犯行」と懲役7年を求刑した。判決は5月20日に言い渡される。これに対し弁護側は「犯行がなかったことには、一点の曇りもない」と無罪を主張した。最終意見陳述で卞被告も「わいせつ行為は一切行っていない」と述べた。起訴状によると卞被告は07年2月、つくば市の教会の寝室で女性に性的暴行を加えたとしている。これまでの公判で女性は、同2月17日、同会施設内の牧師室で卞被告から「必要なのは信頼関係で、夫婦のような関係だ」と言われ「拒めば神様に見放される」という恐怖心から、精神的に抵抗できない状態で性的暴行を受けたと証言した。これに対し弁護側は「卞被告は2月17日に韓国の宣教師を接待していたので、寝室で女性と一緒にいたことはありえない」と主張、この宣教師が撮影した写真や証言をもとに、卞被告には「アリバイがある」とした。これに対し検察側は写真にある日時などのデータには、改ざんの可能性があるとしている。【橋口正】なお、準強姦罪とは、暴行・脅迫によらず、女性の心神喪失・抗拒不能に乗じ、又は女性を心神喪失・抗拒不能にさせて姦淫すること(刑法178条2項)。強姦が力ずくによる姦淫であり、準強姦は抵抗できない状態の女性を強姦することである。「準」の文字がつくからといって、準強姦罪が強姦罪より軽いという意味ではまったくない。準強姦罪の量刑の適用範囲等は強姦罪と同じである。なお強姦罪と強制猥褻罪の違いは各自参照のこと。ところで、刑事訴訟においては、たとえ被告がクロであっても、有罪が立証されなければ無罪とされる。したがって、もし万一、5/20に無罪判決が出たとしても、被告が無実であることを必ずしも意味するわけではない、ということは押さえておくべきである。(3/6追記。民事裁判では被告が有罪であっても、検察が不起訴処分にしたり、あるいは起訴しても刑事裁判で無罪になることがある。これは刑事裁判と民事裁判の違いによる。たとえば1993年の藤沢放火殺人事件。当初検察は嫌..
ハラスメント
inadaniboxi
2011-03-05T22:08:44+09:00
毎日新聞 2011年3月5日 地方版より
つくば市に拠点を置くキリスト教系宗教法人「小牧者(しょうぼくしゃ)訓練会」の信者だった20代女性に性的暴行をしたとして、準強姦(ごうかん)罪に問われた韓国籍の同会牧師、卞在昌(ビョンジェチャン)被告(62)=土浦市=の論告求刑公判が4日、地裁土浦支部(神田大助裁判長)であり、検察側は「自分の性欲を満たすために被害者の純粋な信仰心を利用した卑劣極まりない犯行」と懲役7年を求刑した。判決は5月20日に言い渡される。これに対し弁護側は「犯行がなかったことには、一点の曇りもない」と無罪を主張した。最終意見陳述で卞被告も「わいせつ行為は一切行っていない」と述べた。起訴状によると卞被告は07年2月、つくば市の教会の寝室で女性に性的暴行を加えたとしている。これまでの公判で女性は、同2月17日、同会施設内の牧師室で卞被告から「必要なのは信頼関係で、夫婦のような関係だ」と言われ「拒めば神様に見放される」という恐怖心から、精神的に抵抗できない状態で性的暴行を受けたと証言した。これに対し弁護側は「卞被告は2月17日に韓国の宣教師を接待していたので、寝室で女性と一緒にいたことはありえない」と主張、この宣教師が撮影した写真や証言をもとに、卞被告には「アリバイがある」とした。これに対し検察側は写真にある日時などのデータには、改ざんの可能性があるとしている。【橋口正】
なお、準強姦罪とは、暴行・脅迫によらず、女性の心神喪失・抗拒不能に乗じ、又は女性を心神喪失・抗拒不能にさせて姦淫すること(刑法178条2項)。強姦が力ずくによる姦淫であり、準強姦は抵抗できない状態の女性を強姦することである。「準」の文字がつくからといって、準強姦罪が強姦罪より軽いという意味ではまったくない。準強姦罪の量刑の適用範囲等は強姦罪と同じである。なお強姦罪と強制猥褻罪の違いは各自参照のこと。
ところで、刑事訴訟においては、たとえ被告がクロであっても、有罪が立証されなければ無罪とされる。したがって、もし万一、5/20に無罪判決が出たとしても、被告が無実であることを必ずしも意味するわけではない、ということは押さえておくべきである。
(3/6追記。民事裁判では被告が有罪であっても、検察が不起訴処分にしたり、あるいは起訴しても刑事裁判で無罪になることがある。これは刑事裁判と民事裁判の違いによる。たとえば1993年の藤沢放火殺人事件。当初検察は嫌疑不十分で不起訴処分とした。しかし被害者遺族が民事訴訟を起こし、民事裁判で殺人認定を得た。そこから逆に刑事訴訟が起こった。だが1審では立証できず無罪判決。そして上告し2審で有罪となった。このように刑事と民事では判決が異なることがある。刑事と民事の違いを単純に説明すれば、刑事裁判では「疑わしきは被告の利益」で、一方民事裁判は、原告と被告の証拠の優劣によって決まる、ということ。したがって、誤解を恐れず言うならば、刑事裁判はクロでも無罪になることがあるが、民事裁判ではクロならば有罪となる。上述の、「刑事裁判では被告がクロでも立証できなければ無罪とされる。」とはそういうことである。「刑事裁判で無罪となったからといって無実というわけではない」と言ったのはそういう意味である。)
(3/7追記。電車痴漢の話があったので、ここで電車痴漢と本件の違いについて説明を加えておく。まず電車痴漢の冤罪は、人違いか、あるいは、接触の思い込みによる。人違いとは、電車内には不特定多数の乗客が存在するために、たまたま近くにいた無実の人を行為者として誤ってしまうことである。接触の思い込みとは、混雑した車内において偶発的な身体接触を痴漢と思い込むことである。一方、本件の場合。被告以外の被疑者は存在しないので人違いはない。また本件は軽犯罪でも準強制わいせつ罪でもなく、準強姦罪である。強姦は意図的であり、偶発的な強姦はない。このように本件は電車痴漢とは大きく異なる。したがって、もし仮に本件が冤罪だとすれば、被害者の訴えが虚偽であるという以外にありえない。被害者の訴えが虚偽かどうかについて私の立場から述べることはできないけれども、少なくとも複数の女性被害者が存在するということから訴えが虚偽の蓋然性は低いと言える。)
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人権とキリスト教#3 人権理解の神学的基本モデル
https://inadaniboxi.blog.ss-blog.jp/2010-10-21
人権について教会はどのように対処すべきか。このような問いが生じる背景には、そもそも人権という概念が聖書的かどうかはっきりしないという点にもある。今日では教会において人権概念はおおむね肯定的に受容されているといえよう。しかしながら最初からそうだったのではない。人権思想が登場してきたとき、ローマ・カトリック教会もドイツ・プロテスタント教会もこの人権思想に対しては当初からほぼ一貫して批判的な態度を取り続けてきた。その態度が180度転換するのは第二次世界大戦以降である。それはナチ国家とスターリン主義国家という反教会的国家による人間の尊厳に対する侵害(W.フーバー/H.E.テート著『人権の思想 法学的・哲学的・神学的考察』(河島幸夫訳、新教出版社、1980年、pp.73)がきっかけである。現代ではローマ・カトリック教会もドイツ・プロテスタント教会も人権擁護の側に立っていると言えよう。この辺りの経緯についてはヴォルフガンク・フーバーとハインツ・エドゥアルド・テートの『人権の思想』に詳しいのでここでは述べない。 人権を神学的にどう基礎付けるのか。そもそも人権を神学的に基礎付けることが可能なのか。それとも、いわゆる「人道的エートス」に道を譲るのか。フーバーとテートは人権理解の神学的基本モデルとして次の5つをあげ、それぞれに批評を加えている(前掲書、pp.76-87)。それをここで紹介したい。以下の批評はフーバーとテートによる批評であり、私、伊那谷牧師によるものではないことを念のため申し上げておく。ただし文章をまとめるために、フーバーとテートが使っていない言葉を使っている場合もあることをご理解いただきたい。正確な議論を求める方は前掲書に直接当たっていただきたい。1.人権を神学的命題から直接基礎付けたり引き出そうとする考え方。ユルゲン・モルトマンなど。「人間に対する神の権利の中に基本的人権を位置づける。」しかしこの考え方は、・人権の歴史(人権が神学や教会の抵抗に会いながら実現されてきたという歴史)と調和しない。・人権の法的性格が考慮されていない。人間に対する神の権利から人権を演繹することは、神学と法の混同である。2.人権を二重の仕方で基礎付ける考え方。第二バチカン公会議など。「第一に、人間の理性によって普遍的に認識可能な「人間の尊厳」という概念に人権を基礎付ける。第二に、この「人間の尊厳」を「神の似姿」と「神の戒め」により基礎付け..
人権の神学
inadaniboxi
2010-10-21T13:17:20+09:00
人権を神学的にどう基礎付けるのか。そもそも人権を神学的に基礎付けることが可能なのか。それとも、いわゆる「人道的エートス」に道を譲るのか。フーバーとテートは人権理解の神学的基本モデルとして次の5つをあげ、それぞれに批評を加えている(前掲書、pp.76-87)。それをここで紹介したい。以下の批評はフーバーとテートによる批評であり、私、伊那谷牧師によるものではないことを念のため申し上げておく。ただし文章をまとめるために、フーバーとテートが使っていない言葉を使っている場合もあることをご理解いただきたい。正確な議論を求める方は前掲書に直接当たっていただきたい。
1.人権を神学的命題から直接基礎付けたり引き出そうとする考え方。
ユルゲン・モルトマンなど。
「人間に対する神の権利の中に基本的人権を位置づける。」
しかしこの考え方は、
・人権の歴史(人権が神学や教会の抵抗に会いながら実現されてきたという歴史)と調和しない。
・人権の法的性格が考慮されていない。人間に対する神の権利から人権を演繹することは、神学と法の混同である。
2.人権を二重の仕方で基礎付ける考え方。
第二バチカン公会議など。
「第一に、人間の理性によって普遍的に認識可能な「人間の尊厳」という概念に人権を基礎付ける。第二に、この「人間の尊厳」を「神の似姿」と「神の戒め」により基礎付ける。第一の基礎付けによって、キリスト者と非キリスト者において了解が成立しうると期待され、第二の仕方によって、人権の特殊キリスト教的な基礎付けを可能にする」というもの。フーバーとテートは、こうした人権の二重の基礎付けはとりわけ第二バチカン公会議の諸文書を貫く方法である、という。
しかしこの考え方は、
・カトリックの道徳教説における伝統的な方法論、「自然法」と「神の啓示」という二重の仕方、を繰り返しているように思える。こうした二重の基礎付けを結びつける方法論的な可能性はまだ明らかにされていない。
・「人間の尊厳」概念を自明のものとしているが、「人間の尊厳」概念は自明のものであるだろうか。人権の歴史における深い亀裂によって「人間の尊厳」がむしろ自明のものではないことを示している。
・人権の法的性格の解明が不十分である。
3.人権の神学的な基礎付けや正当化を断念するという考え方。
マルティン・ホーネッカーなど。
この考え方は、人権の歴史的発展から導き出されたもの。「人権は単純にキリスト教から生まれた果実でも帰結でもない。それゆえ神学的正当化という手段を使って人権をキリスト教信仰の中に囲い込むことは許されない。人権はキリスト教倫理の刻印を受けたものではなく、むしろ「普遍的な自然的エートス」(「世界社会の人道的エートス」)の表れである。一般に倫理とは原則として人間的なものにかかわるものであり、どのようなキリスト教的基礎付けも必然的に特殊性という性格が付きまとう。むしろ人権は合理的な、一般人の理解しうる人間科学の諸成果によって獲得すべきである」とする。
しかし、
・そもそも「世界社会の人道的エートス」が単純に所与のものとして前提されてよいのか。そのようなエートスがいかにして定式化されるのかは大いに問題である。それは人権を巡る議論によってはっきりと証明される。
・「普遍性」を「世俗化」や「合理化」と同一視している。他方、キリスト教信仰の内容を無造作に「特殊なもの」と性格づけられている。人権の普遍性と福音の普遍性とがいかなる関係をもっているのかという問題に対しては、人権の普遍性が無条件に承認され、逆に福音の普遍性が承認されないというのはいかがなものか。
・キリスト者と非キリスト者との間に了解を成立させるために、神学を断念するのではなく、むしろ神学で取り扱うべきである。
・人権のテーマを神学で取り扱うねらいは、キリスト教によって人権を独占することではない。むしろ人権を理解し、人権と有益にかかわるために生産的な貢献をすることである。それは福音の普遍性から出発して人権の普遍性を吟味することをも意味している。
4.人権の機能と神学的思考様式の平行関係によって人権と神学とを結びつけようという考え方。
トゥルツ・レントルフなど。
「現時点において一般的に妥当する人権の神学的基礎付けあるいは哲学的基礎付けは存在しない。一方で人権は、人間の自由と人間性が政治秩序に先立つものであることを法的現実とする機能を持つ(つまり、国家や政治は人間の自由と人間性を勝手に処理できないものである、とするのが人権の機能である)。この人権の機能に構造的に対応する神学的思考様式は義認論である。義認の教えによれば、神の恵みに基づく人間の自由は、無条件、無前提の、それゆえ勝手に処理しえない自由である。むろん義認論から人権が生じたわけではない。しかしながら、国家は個人の自由を保障する保証人となることが要請されており、ここに義認論と人権との間に構造的な共通点がある。自由という意識の、同じ歴史的展開領域に属するという歴史的パースペクティブの中で、この見解の正当性は確証される。」とする。フーバーとテートはこの見解に一定の評価を加えつつも、次の疑問も呈している。
・この考え方は人権の一義性を前提としているが、しかし現実は人権解釈を巡り論争がある。
・この考え方は、近代の政治的自由とキリスト教的自由を、あたかも必然的に一致するかのように考えられているが、しかし両者の類似性のみならず相違点も批判的に検討しなければならない。
・この考え方は、人権のうち、個人の自由の要素が前面に出ているが、人権の歴史において重要な平等と参加という要素は、後退している。
5.神学の基本的証言と人権との間に存在する類比と相違という問題意識から出発する考え方。
エーバーハルト・ユンゲル、ハインツ・エドゥアルド・テートなど。
「神が創造された義と、人間が相互関係の中で認め合う法的地位としての権利との間に一つの対応関係が存在する。キリストにおいて打ち立てられた義と、人間が世界の形成のために設け、得ようとしている権利との間には、一つの関係が存在する。なぜならこの神の義は全被造物と人間全体とに及ぶからである。両者は決して同一ではないが、そこには方向付けを示す類比性が存在する。他方、神の義と、人間の間で実現され求められる権利との間には、本質的な相違がある。この相違は、神の義に対して、一切の人間的権利が一時的で相対的な性格を持つという点に示されている。
この考え方は人権の神学的基礎付けを問題としない。なぜならそうした問題設定は、人権の歴史や現代における人権の実現という要請をも正しく受け止めることができないからである。むしろ、人権に対するキリスト教のかかわりがいかなる基礎の上になされるかを、また、人権がいかなる基礎によって神学的に理解されうるのかを、問題にする。」というものである。
テート自身がこの考え方の持ち主であることからも分かるように、前掲書ではこの考え方を肯定している。
「神の義と人間の権利の類比と相違」という考え方は説得力に富む。なによりもこの考え方により、人権概念を重視しつつも相対化しうるという点が優れている。なお神学と社会の「類比と相違」という方法論はバルトに見ることができるだろうが、その是非について論じることは今回は割愛したい。
次回は、この「神の義と人間の権利の類比と相違」についてもう少し紹介をし、私の評価も加えたい。そして、いわゆる「教会のカルト化」やハラスメントなど、教会における人権問題について「神の義と人間の権利の類比と相違」を援用しつつ試論を述べてみたい。
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人権とキリスト教#2 人権と人格尊厳
https://inadaniboxi.blog.ss-blog.jp/2010-09-09
同盟教団には人格尊厳問題委員会がある(2010年現在、活動休止中)。この委員会の名称が「人権」の語を避けている理由として故本間進委員長は次の点を挙げている。 ・「人権」の無神論的フランス啓蒙思想へのつながりに対する懸念。・「人権」と「人間の欲望」との混同。・「人権」の使用に関する不毛な論争。(委員会機関紙「人格尊厳」No.1(1997年5月22日発行)「人格尊厳問題委員会・機関紙発行に寄せて」参照)人権に対する懸念の声の所在が委員会の中なのか外なのかは不明であるが、常識的に考えるなら委員会の外だろう。そして上記2つの人権に対する懸念に対する反論は可能である。人権思想の歴史的源泉への問いに対する反論として、イギリスやアメリカのキリスト教的な諸権利宣言をあげることは可能である。また「人権」と「人間の欲望」との混同に対する反論として、そもそも人権とは権力の非対称性における専制と圧迫に抗する法的基盤を与えるものであって人権と人間の欲望(の肥大化)は異なる概念である、と言うことは可能である。もっとも、先の懸念を持つ人々がこのような反論によって納得するか否かは別問題である。おそらく委員会内ではより深くより広く議論がなされたであろうし、そのような人権への懸念に対する反論は用意されていたことと思う。しかし委員会発足に際し「不毛な論争」を避けるとの実践的理由から、人権への懸念に対して反論しなかった。そして委員会の名称に「人権」の語を入れることを避けて、「人格尊厳」の語を入れた。本間委員長は「人格尊厳」の語がローザンヌ誓約(1974年)の第5項に由来することを述べている。「人間は神のかたちに似せて造られているので、一人びとりは、人種、宗教、皮膚の色、文化、階級、性別、年齢にかかわりなく、それぞれ本有的尊厳性を有すものである。」私は、本間委員長が委員会の名称を人権問題委員会ではなく人格尊厳問題委員会にしたことは良かったと思っている。それは本間委員長も述べているように、人格尊厳がより聖書的概念であるからである。そのことについては後日述べたいと思う。「人格尊厳」は「人権」よりも聖書的概念ではあるが、逆に「人権問題」と言えば通じることが「人格尊厳問題」と言うことによって分かりにくくさせることもある。本間委員長も「(人格尊厳問題とは)オヤツと思われる馴染みのない名称」と述べている(前掲書)。たとえば、「ハラスメントは人権問題である」と言うのと..
人権の神学
inadaniboxi
2010-09-09T00:00:00+09:00
・「人権」の無神論的フランス啓蒙思想へのつながりに対する懸念。
・「人権」と「人間の欲望」との混同。
・「人権」の使用に関する不毛な論争。
(委員会機関紙「人格尊厳」No.1(1997年5月22日発行)「人格尊厳問題委員会・機関紙発行に寄せて」参照)
人権に対する懸念の声の所在が委員会の中なのか外なのかは不明であるが、常識的に考えるなら委員会の外だろう。そして上記2つの人権に対する懸念に対する反論は可能である。人権思想の歴史的源泉への問いに対する反論として、イギリスやアメリカのキリスト教的な諸権利宣言をあげることは可能である。また「人権」と「人間の欲望」との混同に対する反論として、そもそも人権とは権力の非対称性における専制と圧迫に抗する法的基盤を与えるものであって人権と人間の欲望(の肥大化)は異なる概念である、と言うことは可能である。もっとも、先の懸念を持つ人々がこのような反論によって納得するか否かは別問題である。おそらく委員会内ではより深くより広く議論がなされたであろうし、そのような人権への懸念に対する反論は用意されていたことと思う。
しかし委員会発足に際し「不毛な論争」を避けるとの実践的理由から、人権への懸念に対して反論しなかった。そして委員会の名称に「人権」の語を入れることを避けて、「人格尊厳」の語を入れた。本間委員長は「人格尊厳」の語がローザンヌ誓約(1974年)の第5項に由来することを述べている。「人間は神のかたちに似せて造られているので、一人びとりは、人種、宗教、皮膚の色、文化、階級、性別、年齢にかかわりなく、それぞれ本有的尊厳性を有すものである。」 私は、本間委員長が委員会の名称を人権問題委員会ではなく人格尊厳問題委員会にしたことは良かったと思っている。それは本間委員長も述べているように、人格尊厳がより聖書的概念であるからである。そのことについては後日述べたいと思う。
「人格尊厳」は「人権」よりも聖書的概念ではあるが、逆に「人権問題」と言えば通じることが「人格尊厳問題」と言うことによって分かりにくくさせることもある。本間委員長も「(人格尊厳問題とは)オヤツと思われる馴染みのない名称」と述べている(前掲書)。たとえば、「ハラスメントは人権問題である」と言うのと「ハラスメントは人格尊厳問題である」と言うのでは、前者の方が一般に受容されやすい。そういう不利さはあるが、それは今後の啓発によって克服されると信じたい。
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人権とキリスト教#1
https://inadaniboxi.blog.ss-blog.jp/2010-08-17
超重量級のテーマに首を突っ込んでしまっている。タイトルどおりキリスト教と人権を雑考しようというものである。もとより私は人権の専門家でもキリスト教倫理の専門家でもないので、その筋の方から見たら笑止千万レベルのことを書くだろう。もとよりレフェリーのついたペーパーでもなく、正規の編集者のいる出版物でもない、ただの個人的なウェブログなので、その辺は平にご容赦願いたい。これを読まれた方の中には、あるいは「お前ごときが手を出す領域じゃねえぞ」とか「身の程知らずが分を弁えよ」とか「お前はものを知らない」というふうに思われる方もおられるかもしれないが、それは腹の中にぐっとしまいこんで看過していただけるならば真に幸甚でございます。とりあえず何のためにこれを書こうとしているのか。企ての動機を書かねばならないだろう。実は今カルト問題対策委員会として相談窓口設置の検討をしている。この件は既に今春の同盟教団総会資料に掲載されているので同盟教団関係者は既知のことだろうし、ここまでなら不特定多数の方の目に触れるブログに載せても問題はないと思う。あくまでも相談窓口設置の検討段階であって、相談窓口設置の準備をしているわけではないことをご理解いただきたい。相談窓口設置は喫緊の課題ではあると思うが、しかしこういうデリケートな問題は周到な準備が欠かせないものである。検討の詳細についてブログに書くことは差し控えたい。それで検討の一つとしてそもそも聖書的に、神学的な検討を加えることが不可欠であるとの認識に立ち、ただ今その作業をしているところである。「そもそも論」をやっているところである。作業としてハラスメント対策の「神学そもそも論」がまず一つあり、それを提出する前に、メモ程度のことをここに書いて、読者の批判を浴びようというのがこのカテゴリーの企てである。ついでに読者の関心に応えようという意図もある。なお、このカテゴリーはカルト問題対策委員会から派生したものであるけれども、まったく伊那谷牧師の個人的なものであって、委員会とは独立したブログ記事であることを念のため、申し上げておく。神学論争なので辛らつなコメントを承りたい。わかった、わからない、などの率直な感想でも結構である。みなさんどしどしお寄せくださいませ。なお読者の中には、コメントではなくメールで言いたいという方もいるかもしれない。左下に私のメールアドレスを記載してあるのでそちらをご利用いただきたい。とり..
人権の神学
inadaniboxi
2010-08-17T00:00:00+09:00
とりあえず何のためにこれを書こうとしているのか。企ての動機を書かねばならないだろう。実は今カルト問題対策委員会として相談窓口設置の検討をしている。この件は既に今春の同盟教団総会資料に掲載されているので同盟教団関係者は既知のことだろうし、ここまでなら不特定多数の方の目に触れるブログに載せても問題はないと思う。あくまでも相談窓口設置の検討段階であって、相談窓口設置の準備をしているわけではないことをご理解いただきたい。相談窓口設置は喫緊の課題ではあると思うが、しかしこういうデリケートな問題は周到な準備が欠かせないものである。検討の詳細についてブログに書くことは差し控えたい。
それで検討の一つとしてそもそも聖書的に、神学的な検討を加えることが不可欠であるとの認識に立ち、ただ今その作業をしているところである。「そもそも論」をやっているところである。作業としてハラスメント対策の「神学そもそも論」がまず一つあり、それを提出する前に、メモ程度のことをここに書いて、読者の批判を浴びようというのがこのカテゴリーの企てである。ついでに読者の関心に応えようという意図もある。
なお、このカテゴリーはカルト問題対策委員会から派生したものであるけれども、まったく伊那谷牧師の個人的なものであって、委員会とは独立したブログ記事であることを念のため、申し上げておく。
神学論争なので辛らつなコメントを承りたい。わかった、わからない、などの率直な感想でも結構である。みなさんどしどしお寄せくださいませ。なお読者の中には、コメントではなくメールで言いたいという方もいるかもしれない。左下に私のメールアドレスを記載してあるのでそちらをご利用いただきたい。とりあえず「てにをは」はここまでとする。
ハラスメントが人権侵害であることは論を待たない。一般社会のハラスメント対策においては「ハラスメントは人権侵害である」と語られている。またキリスト教会のハラスメント対策においても同様である。現代においては一般社会においてもキリスト教会においても「人権」という概念は受容されていると言える。しかしながら、「教会において「人権」を根拠として語ることに対しては、慎重であるべきだ」との声も少なからず存在する。むろんそれは人権を否定しようという動機からではなく、「人権」という概念が無神論的ないしは世俗的ヒューマニズムの響きを感じ取るがゆえに、単純かつ無批判に「人権」を根拠とすることに対する慎重さの表れであると言えるだろう。人権について神学的考察を避けて「人権」概念を教会に導入することはできない。
まず、この点について、同盟教団人格尊厳問題委員会が教団内での先駆的働きをしてこられた。人格尊厳問題委員会の議論を援用したい。
次におそらく人権とキリスト教についてのかなりまとまった考察をしているW・フーバー、H・E・テート共著『人権の思想 法学的・哲学的・神学的考察』(河島幸夫訳、新教出版社、現代キリスト教倫理双書、1980年)から論じたい。その他、日本キリスト教改革派教会大会・世と教会に関する委員会『キリスト教と人権―改革派世界教会会議 人権に関する証言―』(聖恵授産所出版部、1992年)などを利用したい。
今日はとりあえずここまで。
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ブログ移動のお知らせ
https://inadaniboxi.blog.ss-blog.jp/2010-08-13
ようこそ。伊那谷牧師の雑考2.0へ。このブログでは、いわゆる「教会のカルト化」、マインド・コントロール、社会心理学、権威主義、ハラスメントなどについて特化したブログです。今後ともお付き合いの程よろしくお願いします。なお本体の「伊那谷牧師の雑考」も、従来どおり継続していきますのでそちらもよろしくお願いします。
お知らせ
inadaniboxi
2010-08-12T00:00:00+09:00
このブログでは、いわゆる「教会のカルト化」、マインド・コントロール、社会心理学、権威主義、ハラスメントなどについて特化したブログです。今後ともお付き合いの程よろしくお願いします。
なお本体の「伊那谷牧師の雑考 」も、従来どおり継続していきますのでそちらもよろしくお願いします。
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ウェイヴ
https://inadaniboxi.blog.ss-blog.jp/2010-07-31
2008年ドイツ映画日本公開2009年監督・脚本: デニス・ガンゼル原題:Die Welle、英語題:The Waveストーリー:自由な雰囲気で生徒に慕われるベンガー(ユルゲン・フォーゲル)は、校長の要請で独裁制の授業を担当することに。あまりやる気のない生徒に、「発言するときは挙手して立つ」など独裁制の実験を取り入れようと提案。しかし、ベンガーの予想を超え、独裁制に魅了された生徒たちは、学校外でも過激な活動をするようになり……。(シネマトゥデイより)ラストシーンには驚かされた。最初の10分間は冗長に感じられたが、全体としてはテンポよく進んでいったと思う。映画の舞台はドイツの高校だが、この映画の元になった事件はアメリカの高校で起こったことである。1967年にカリフォルニア州パロ・アルト市の公立高校(Ellwood Patterson Cubberley High School、エルウッド・パターソン・カバリー高校)で歴史教師Ron Jonesロン・ジョーンズは高校生相手にドイツのナチによるファシズムについに教えていた。高校生たちは、こんな自由な時代にナチズムは起こらないし、また自分たちだったらナチのような独裁制(全体主義)には絶対反対すると言った。果たして独裁制(全体主義)は、特殊な人々による特殊な事件なのか。ロン・ジョーンズはそれを確かめるべく社会心理実験を行った。その結果、そのクラスは容易に独裁制に陥ってしまった。その影響が学校全体、そして他校にまで及んだとき、事態の深刻さと危険性を考え、ロン・ジョーンズはこの実験「ウェイブ」を解散した。独裁制は自分たちにでも起こることをカリフォルニアの高校生達は自らの体験として理解したのである(The Third Wave参照)。 実話を基にした小説として、モートン・ルー著『ザ・ウェーブ』(新樹社、小柴一訳)がある。映画と実話を絡めた記事として以下のものがあった。参考までに。マインドコントロールの恐怖I~その戦慄のメカニズム~映画の中で、教師のベンガーが、独裁制のリーダーとしての立場に、いつの間にか酔ってしまっているという描写がある。組織内の支配・従属関係におけるマインドコントロールは従属側のみならず支配側にも起こる。教師ベンガーは最後までフランクで自由な人間である。最も独裁的でない人物として描かれている。にもかかわらず「リーダーとしてかしずかれることを楽しんでいる」(ベンガ..
映画・動画
inadaniboxi
2010-07-31T00:00:00+09:00
日本公開2009年
監督・脚本: デニス・ガンゼル
原題:Die Welle、英語題:The Wave
ストーリー:自由な雰囲気で生徒に慕われるベンガー(ユルゲン・フォーゲル)は、校長の要請で独裁制の授業を担当することに。あまりやる気のない生徒に、「発言するときは挙手して立つ」など独裁制の実験を取り入れようと提案。しかし、ベンガーの予想を超え、独裁制に魅了された生徒たちは、学校外でも過激な活動をするようになり……。(シネマトゥデイ より)
ラストシーンには驚かされた。最初の10分間は冗長に感じられたが、全体としてはテンポよく進んでいったと思う。映画の舞台はドイツの高校だが、この映画の元になった事件はアメリカの高校で起こったことである。1967年にカリフォルニア州パロ・アルト市の公立高校(Ellwood Patterson Cubberley High School、エルウッド・パターソン・カバリー高校)で歴史教師Ron Jonesロン・ジョーンズは高校生相手にドイツのナチによるファシズムについに教えていた。高校生たちは、こんな自由な時代にナチズムは起こらないし、また自分たちだったらナチのような独裁制(全体主義)には絶対反対すると言った。果たして独裁制(全体主義)は、特殊な人々による特殊な事件なのか。ロン・ジョーンズはそれを確かめるべく社会心理実験を行った。その結果、そのクラスは容易に独裁制に陥ってしまった。その影響が学校全体、そして他校にまで及んだとき、事態の深刻さと危険性を考え、ロン・ジョーンズはこの実験「ウェイブ」を解散した。独裁制は自分たちにでも起こることをカリフォルニアの高校生達は自らの体験として理解したのである(The Third Wave 参照)。
実話を基にした小説として、モートン・ルー著『ザ・ウェーブ』(新樹社、小柴一訳)がある。
映画と実話を絡めた記事として以下のものがあった。参考までに。
マインドコントロールの恐怖I~その戦慄のメカニズム~
映画の中で、教師のベンガーが、独裁制のリーダーとしての立場に、いつの間にか酔ってしまっているという描写がある。組織内の支配・従属関係におけるマインドコントロールは従属側のみならず支配側にも起こる。教師ベンガーは最後までフランクで自由な人間である。最も独裁的でない人物として描かれている。にもかかわらず「リーダーとしてかしずかれることを楽しんでいる」(ベンガーの恋人教師からの指摘)のであり、それがために、「ウェイブ」の解散を遅らせてしまったのである。
マズローの欲求段階説もあるように、人間には所属欲求というものがある。ティムという登場人物がいる。ティムは家庭環境が複雑な上にいじめにもあった。ティムは現実世界に居場所を失っていた。所属欲求の不満のために、彼は「リーダーに従いたい」という思いを増加させた。他にも、移民の子、成績の悪い生徒などにもその傾向があった。
所属欲求の変形として従属欲求もあろう。人間には人を支配したいという支配欲求と、人に支配されたいという従属欲求がある。両者は同一の人間の中に同居し、また時と場合によって両者のバランスは変動する。支配欲求と従属欲求は対立的なものではなく、一体のものである。
自信を失った人々は、どのようにして自信を回復するか。大別して2つある。「私(たち)は偉大なことを成し遂げることが出来る」と思うか、「私(たち)は偉大なものに帰属している」と思うかである。そもそも人間には「偉大なものに帰属したい」という帰属欲求と「偉大なことを成し遂げたい」という達成欲求がある。社会学者の宮台真司は、先の大戦で敗れた日独伊の枢軸国側の特徴として帰属欲求があることを挙げている。枢軸国側は、連合国側の英米仏のような自力の市民革命によらず、「追いつき追い越せ」で急速な近代化を遂げた。急速な近代化のために共同体や自然が失われて疎外感を抱く者が量産され、寂しさを着地させる場所として、自らが一体化すべき国家=崇高なる共同体が見出される、と述べる(『天皇ごっこ』の解説)。達成感ではなく、「自分は偉大なものに属している」という帰属感を膨らませた。前者が英米仏で後者が日独伊と宮台真司は述べる。その分析はおおよそ合っていると思う。ただしカリフォルニア州のカバリー高校の事件のように、アメリカの高校生も帰属欲求が強いということを考えると、アメリカ人だからどうだとか、ドイツ人だからこうだ、ということはない。「自分も出来ると思いたい」という達成欲求と「自分は偉大なものに属していると思いたい」という帰属欲求は同一の人間の中に同居している。
しかし達成感を心底味わえる人間というのは実際には限られている。そのためには努力もしなければならず時間もかかる。そして時には偶発的な要因もある。小さなことでは達成感は味わえないだろう。その人の欲求の度合いにもよるのだろうが、「自分も出来ると思いたい」という達成欲求を満たす人は全体で言えばそう多くはない。そして大多数の人間は達成欲求を満たすことを諦めて、その代わりに帰属欲求を満たすほうを選ぶだろう。なぜならその方が安易だからだ。それに対する処方箋としては、それこそキリストの福音なわけだが、それはまたいずれ書こうと思う。
ぐだぐだ書いてしまったが、要するに人は容易に全体主義に陥ってしまうという話である。
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実録・連合赤軍 あさま山荘への道程
https://inadaniboxi.blog.ss-blog.jp/2010-07-02
2007年 日本映画監督・製作:若松孝二脚本:掛川正幸/出口出音楽:ジム・オルークストーリー:ベトナム戦争、パリの5月革命、中国文化大革命など、世界中が大きなうねりの中にいた1960年代。日本でも学生運動が熱を帯び、連合赤軍が結成された。革命戦士を志した坂口弘(ARATA)や永田洋子(並木愛枝)ら若者たちは、山岳ベースを設置し訓練をはじめる。厳しい訓練に追い詰められ、メンバーによる仲間同士の粛正が壮絶を極めていく。(シネマトゥデイより)私の趣味と言えばTSUTAYAで100円で旧作DVDを借りて観ることである。旧作だから話題作でも観るのがだいぶ時間が経ってからである。いや別にTSUTAYAである必然性もないのだが近所で安く借りられるのがTSUTAYAだからという理由がその1。ついでに新書や雑誌をブラウズすることもできるというのが理由その2。学生時代にセブンイレブンに立ち寄ることが決め事だったように、定期的にTSUTAYAに行くことが今の自分の定例行事となっている。だからもしお前の趣味は何だと聞かれたら、映画鑑賞と答えずにDVDブラウズと答えることにしている。ところが実を言えばこのところ珍しく多忙感があり、ずっとDVDを借りて観ることがなかった。多忙感というのは便利な言葉だ。他人から見て客観的に多忙であるか否かは問題ではない。もとより多忙の客観的基準など存在しないのであるが。それはともかくとして、最近ようやく「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」を借りて観ることができた。内容は大学紛争事件、山岳ベース事件、あさま山荘事件の3部構成のドキュメンタリータッチの映画である。3時間10分という長時間の上に最初の三分の一が登場人物たちの軌跡を紹介するというスタイルがやや眠気を誘いたびたび巻き戻しては観ていた。しかし山岳ベース事件からは眠気も消え、画面に釘付けとなった。総括。森恒夫と永田洋子が組織内における権力欲・支配欲そして構成メンバーによる同調圧力、傍観的態度が組織内の支配従属関係を強化する。「お前のためだ」「頑張って総括してよ」偽善的な利他的発言により目前でいじめが起こっていることを自他共に受容することができない。両眼で見ているのに見えていない。誰もノーと言えないチキンレースである。後に浅間山荘において最年少メンバーの加藤元久が「勇気がなかったんだよ!」と叫ぶ。もちろんこれは脚色であるが、つまりそういうことである。そして..
映画・動画
inadaniboxi
2010-07-02T00:00:00+09:00
監督・製作:若松孝二
脚本:掛川正幸/出口出
音楽:ジム・オルーク
ストーリー:ベトナム戦争、パリの5月革命、中国文化大革命など、世界中が大きなうねりの中にいた1960年代。日本でも学生運動が熱を帯び、連合赤軍が結成された。革命戦士を志した坂口弘(ARATA)や永田洋子(並木愛枝)ら若者たちは、山岳ベースを設置し訓練をはじめる。厳しい訓練に追い詰められ、メンバーによる仲間同士の粛正が壮絶を極めていく。(シネマトゥデイ より)
私の趣味と言えばTSUTAYAで100円で旧作DVDを借りて観ることである。旧作だから話題作でも観るのがだいぶ時間が経ってからである。いや別にTSUTAYAである必然性もないのだが近所で安く借りられるのがTSUTAYAだからという理由がその1。ついでに新書や雑誌をブラウズすることもできるというのが理由その2。学生時代にセブンイレブンに立ち寄ることが決め事だったように、定期的にTSUTAYAに行くことが今の自分の定例行事となっている。だからもしお前の趣味は何だと聞かれたら、映画鑑賞と答えずにDVDブラウズと答えることにしている。ところが実を言えばこのところ珍しく多忙感があり、ずっとDVDを借りて観ることがなかった。多忙感というのは便利な言葉だ。他人から見て客観的に多忙であるか否かは問題ではない。もとより多忙の客観的基準など存在しないのであるが。
それはともかくとして、最近ようやく「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」を借りて観ることができた。内容は大学紛争事件、山岳ベース事件、あさま山荘事件の3部構成のドキュメンタリータッチの映画である。3時間10分という長時間の上に最初の三分の一が登場人物たちの軌跡を紹介するというスタイルがやや眠気を誘いたびたび巻き戻しては観ていた。しかし山岳ベース事件からは眠気も消え、画面に釘付けとなった。総括。森恒夫と永田洋子が組織内における権力欲・支配欲そして構成メンバーによる同調圧力、傍観的態度が組織内の支配従属関係を強化する。「お前のためだ」「頑張って総括してよ」偽善的な利他的発言により目前でいじめが起こっていることを自他共に受容することができない。両眼で見ているのに見えていない。誰もノーと言えないチキンレースである。後に浅間山荘において最年少メンバーの加藤元久が「勇気がなかったんだよ!」と叫ぶ。もちろんこれは脚色であるが、つまりそういうことである。そしてとうとう虐殺死に至る。志を同じくし理想に燃える同士であるにもかかわらず悲惨なリンチに至ったのは、志も形態もことなるけれどもカルト化やパワハラと相通じるところがあると言えよう。なお山岳ベース事件についてはwiki-山岳ベース事件 を参照のこと。
水草師もブログで述べているように、権力の否定は平和ではない。権力の否定は別の歪んだ権力を生むだけである。フランス革命しかり、共産主義革命しかり、連合赤軍しかりである。政治闘争の現象ではなく、おそらくすべての組織集団において存在する可能性がある。特に凝集性の高い組織、また強い理念・信条・目標設定を掲げている集団において発生しやすい。その際、既存の権力が否定される。それに取って代わるような言説が集団内において語られる。やがて醜悪な権力構造が形成される。権力を否定するだけでは権力主義は防げない。しばしばキリスト者の中で「ナイーブな」平等が語られている印象がある。しかしナイーブな平等論や権力否定は、別の、より醜悪な、権力主義を発生する温床である。
山岳ベース事件(リンチ殺人事件)の首謀者である森恒夫も永田洋子も必ずしも権力欲の強い人間ではない。森恒夫は一度は逃亡した人間であり、映画の中でも決してふてぶてしい腹黒強欲野心家のようではまるでなく、どこか臆病と陰をもっており、そしてその内心を悟られまいとして、結果的にリンチに走っていった。むろん森恒夫一人では何もできるはずがなく、それよりも組織という集団圧力が森自身の言動をも拘束していったのである。永田洋子に関しては、どちらかと言えば映画の中では女の嫉妬のために仲間をリンチのターゲットにしていったという描かれ方であった。
この映画の中で唯一の欠点と言えば、永田の心理描写が画一的というか最後まで徹底的に表面的であることにこだわったということであろうか。若松孝二監督があさま山荘事件だけではなく、その道程として山岳ベース事件にかなり突っ込んだ編集をしていることからすれば、また加藤少年に「勇気がなかったんだよ」と言わせているところからすれば、やはりこの映画の見せ場はそこにあるだろうし、森恒夫と永田洋子が描かれるはずであろう。そして森恒夫に関しては映画の前半においてある程度そのことには描かれている。それだけに永田洋子がただ「女の嫉妬」だけでリンチをしているかのように描かれているのは残念である。とはいえ、そのことはこの映画の面白さを少しも低減させるものではない。カルト問題やパワハラに関心のある方でまだ見ていない方は是非この映画を観ることをお勧めする。
他人から見てその人の内面がどう映るかというのは、もとより難しいものであって、所詮は外から眺める者の印象でしかないといえばそれまでだが、しかしそれでも見られる者と見る者の文脈によっては内面を知ることができることもある。加藤少年が「勇気がなかったんだよ」と言ったのは(繰り返すがこれは脚色である)、彼があの異常なリンチの中にいたからである。どういうことかと言えば、もし加藤少年が自分にも「総括」要求の恐れが全くないのなら、彼の憎悪は森や永田に向けられたに違いない。しかし彼もまたいつ自分に「総括」要求がされるかという恐れがあった。そしてそれを跳ね除ける勇気がなかった。彼の恐れは森や永田ではなく、彼の同志たちにある。
余談だが、途中で森と永田と坂口弘だけで話し合う場面がある。そこでは3人とも肩の力を抜いて、話し合う。彼らは組織トップであるので、彼らは組織に睨みをきかせこそすれ彼らが構成員からの圧力におびえるということはないだろうと通常は思う。しかし組織トップである彼らこそが、構成員からの圧力におびえているのである。そして3人だけになったとき、いわば「しらふ」に戻ったのである。
加藤少年はもちろんその場面を知らないが、加藤少年が恐怖と憎悪を組織トップの森や永田にではなく構成員全員に向けられていたのはそういうことである。そしてそれはただ加害者であるばかりでなく被害者となっていく者たちに対しても同様である。
加藤少年が坂東國男、吉野雅邦、加藤倫教に向かって「あんたも、あんたも、勇気がなかったんだよ」と言ったのは、そして坂口に向かって「坂口さん、あんたも勇気がなかったんだよ」と言ったのは、彼がその異常な文脈を共有していたがゆえに組織の同志たちの心理状態が見えたのである。
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es エス
https://inadaniboxi.blog.ss-blog.jp/2010-05-05
2001年ドイツ映画日本公開2002年監督:オリヴァー・ヒルシュビーゲル原題:Das Experiment、英語題:The Experiment。原題および英語題は「実験」の意味。邦題「es エス」はドイツ語で「それ」。スタンフォード監獄実験(1971年にアメリカのスタンフォード大学で実際に行われた)を元にしている。
映画・動画
inadaniboxi
2010-05-05T00:00:00+09:00
日本公開2002年
監督:オリヴァー・ヒルシュビーゲル
原題:Das Experiment、英語題:The Experiment。
原題および英語題は「実験」の意味。
邦題「es エス」はドイツ語で「それ」。
スタンフォード監獄実験(1971年にアメリカのスタンフォード大学で実際に行われた)を元にしている。解説:1971年に試みられた心理実験を描いたシチュエーション・サイコ・ムービー。監督は本作がデビューとなるオリバー・ヒルツェビゲル。出演は、「ラン・ローラ・ラン」「ルナ・パパ」のモーリッツ・ブライプトライ、「アイネ・ジルベスターナハト」「代理人」のクリスティアン・ベッケル、「タイガー、ライオン、パンサー」のオリバー・ストコフスキー、「ワールド・イズ・ノット・イナフ」のユストゥス・フォン・ドーナニー、「女薬剤師」「マリアンネ・ホッペー女王」のマレン・エッゲルトほか。2001年モントリオール国際映画祭最優秀監督賞、同年ババリアン映画賞最優秀監督賞・最優秀撮影賞・最優秀脚本賞、同年ドイツ映画賞最優秀観客賞・最優秀金賞、同年ベルゲン国際映画祭最優秀観客賞受賞。(キネマ旬報 より) その実験とは大学の地下に作られた擬似刑務所で20人の男達を「看守」と「囚人」に分け、それぞれ与えられた役になり切り二週間生活するというものであった。 タレクは、2週間で4000マルク(約2000ユーロ、25万円)という高報酬と、刑務所の囚人の疑似体験という実験の特殊性が良い記事になると思い実験の様子を秘密裏に取材し、録画する為の超小型カメラを眼鏡に仕込み実験に参加する。始めの日は両サイド共に何の問題も無く和やかな雰囲気で過ごす。しかしその後、些細ないざこざから端を発した看守側と囚人側の対立は、徐々に深くなってゆく。実験の主催者である教授に対し彼の助手たちは、実験の続行は危険だと判断し実験中止の要請を再三に渡り行う。だがこれらの要請は教授によって全て拒否され、この実験は最終的に、2名の死者を含む多数の死傷者を出す惨劇へと変貌して行く。(wiki-es より
なお映画は実際のスタンフォード監獄実験とは相違点がある。スタンフォード監獄実験には死者はいない。
予めお断りしておくが、この映画は年齢制限はないが、ストレス耐性の低い方は観ないほうがよい。「お子さま」は見ないほうがよい。youtubeにはトレイラーがあるが念のためこのブログに貼り付けないことにした。
URLだけ記しておく。
http://www.youtube.com/watch?v=QdTafti2wdY
"das experiment"で検索。
さて映画を観たのは、もちろん、スタンフォード監獄実験を理解するためである。ただし繰り返すがこの映画はスタンフォード監獄実験と同じではない。
スタンフォード監獄実験については前々から書こうと思っていた。集団心理、社会心理を知るためのトピックスのひとつである。
詳細は以下のサイト記事から。
X51.ORG
情況の囚人 ― 1971年”スタンフォード監獄実験”とは
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動画 マインドコントロールへの落とし穴シリーズ
https://inadaniboxi.blog.ss-blog.jp/2010-04-01
カテゴリとしてマインドコントロールを追加しました。以前にも紹介しましたが、youtubeにアップされているマインドコントロール関連の動画を紹介します。マインドコントロールとは何かを知るのにちょうどよいです。マインドコントロールへの落とし穴!① 強制せず、さも自分の意思で「・・・人間というのは極端な混乱に陥るとパニックを避けるために、自動的に思考を停止してしまう・・・」マインドコントロールへの落とし穴!② 「慈善行為のアピール」「強制力を使わずにどれだけ人の判断を左右できるかを実験してみました・・・(人物の印象を操作する実験)」マインドコントロールへの落とし穴!③ ~強制のない集団圧力~「(集団圧力がどう作用するかの実験として)7人のうち、6人はサクラ。予め間違った答えをしてもらうように頼んでおく。そのことを1人の実験台の方は知りません・・・」マインドコントロールへの落とし穴!④ カルト教団「(マインドコントロールの技術と言っても)なんだ、当たり前じゃんというものばかり・・・」マインドコントロールへの落とし穴!⑤ ~ 脱会者の体験談 ~(元エホバの証人による証言)「・・・聖書を学んでいるつもりが、組織の教理を学んでいたんだなって・・・・」マインドコントロール(Mind Control)への落とし穴!⑥ ~カルト宗教脱会者の告白~手相など「・・・洗脳は鉄の枠、マインドコントロールはオブラート・・・マインドコントロールは、強制せず、さも自分の意志で選択したかのように、ある結論に導くわけです・・・」マインドコントロール(Mind Control)への落とし穴!⑦ ~ 対策 ~「・・・マインドコントロールにかかり易い人は、という問いに答えはありません。あえて答えを出すならば、それは『自分だけは大丈夫』と思っている人です。最も無防備、無警戒になってしまうからです。では実際にどうすれば、対抗できるのでしょうか?・・・」
映画・動画
inadaniboxi
2010-04-01T00:00:00+09:00
以前にも紹介しましたが、youtubeにアップされているマインドコントロール関連の動画を紹介します。マインドコントロールとは何かを知るのにちょうどよいです。
マインドコントロールへの落とし穴!① 強制せず、さも自分の意思で
「・・・人間というのは極端な混乱に陥るとパニックを避けるために、自動的に思考を停止してしまう・・・」
マインドコントロールへの落とし穴!② 「慈善行為のアピール」
「強制力を使わずにどれだけ人の判断を左右できるかを実験してみました・・・(人物の印象を操作する実験)」
マインドコントロールへの落とし穴!③ ~強制のない集団圧力~
「(集団圧力がどう作用するかの実験として)7人のうち、6人はサクラ。予め間違った答えをしてもらうように頼んでおく。そのことを1人の実験台の方は知りません・・・」
マインドコントロールへの落とし穴!④ カルト教団
「(マインドコントロールの技術と言っても)なんだ、当たり前じゃんというものばかり・・・」
マインドコントロールへの落とし穴!⑤ ~ 脱会者の体験談 ~
(元エホバの証人による証言)「・・・聖書を学んでいるつもりが、組織の教理を学んでいたんだなって・・・・」
マインドコントロール(Mind Control)への落とし穴!⑥ ~カルト宗教脱会者の告白~手相など
「・・・洗脳は鉄の枠、マインドコントロールはオブラート・・・マインドコントロールは、強制せず、さも自分の意志で選択したかのように、ある結論に導くわけです・・・」
マインドコントロール(Mind Control)への落とし穴!⑦ ~ 対策 ~
「・・・マインドコントロールにかかり易い人は、という問いに答えはありません。あえて答えを出すならば、それは『自分だけは大丈夫』と思っている人です。最も無防備、無警戒になってしまうからです。では実際にどうすれば、対抗できるのでしょうか?・・・」
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「アウェイよりホーム」支配欲を満たそうとする思い
https://inadaniboxi.blog.ss-blog.jp/2010-03-28
「きっと密会・不倫現場はアウェイよりホームがいいのだろう」(命と性の日記、「権力者たちの密会現場が意味するもの」より)おそらく読者の皆さまは既にお読みになっているとは思いますが、一昨日の「命と性の日記」の記事は多くのクリスチャンブロガーによって引用されていることでしょう。それほど秀逸な記事です。某国家公安委員長と某小学校校長という熟年権力者男性二名による女性スキャンダル。その場所はそれぞれ議員宿舎と校長室というホームを利用している点で共通していることを指摘。さらにイスラエル王ダビデやクリントン大統領の事件、そして聖職者らによる性的不祥事もすべて「アウェイよりホーム」である点を指摘しております。指摘されるまで全く気がつきませんでしたが、確かにすべてホームで行われております。さらにそこから支配欲を満たそうとするという点も指摘しております。ここ重要です。支配欲。これがカルト化の要因でもあり、またハラスメントの要因でもあります。キリストの福音により支配欲はきよめられていくはず。しかし、それがなぜか権力ある地位に着くと、きよめられるどこから一層支配欲が増してしまう。支配欲という罪を足場として、そこに悪魔的な力が働くのでしょう。イエスさまは40日間の荒野においてサタンから権力欲(支配欲)の誘惑を受けましたが、打ち勝たれました。そしてそれは荒野の出来事だけではなくご生涯すべてに見られるものであり、わけても十字架がそうであります。そういう意味では権力欲(支配欲)を満たそうとする生き方はイエスさまの十字架の生き方とは正反対と言わざるを得ませんね。ところでなぜ、アウェイよりホームを選ぶのか。ご指摘の支配欲の満たしのほかがあるとするなら、たぶん安心感もあるのではと思いました。権力者は普通の人以上に怖がりであり、案外臆病なのでは。それにそういうスキャンダラスのことをしながら、そのために今の地位と名誉を失いたくないために慎重になっている。だら、何が起こるかわからないアウェイよりもかって知るホームの方が安心だと考えているのかもしれません。何も失う恐れのない無鉄砲な人間ならアウェイだろうがぶどう畑だろうがかまわずかような行為に励むのでしょうが・・・
ハラスメント
inadaniboxi
2010-03-28T00:00:00+09:00
「きっと密会・不倫現場はアウェイよりホームがいいのだろう」(命と性の日記、「権力者たちの密会現場が意味するもの 」より)
おそらく読者の皆さまは既にお読みになっているとは思いますが、一昨日の「命と性の日記」の記事は多くのクリスチャンブロガーによって引用されていることでしょう。それほど秀逸な記事です。
某国家公安委員長と某小学校校長という熟年権力者男性二名による女性スキャンダル。その場所はそれぞれ議員宿舎と校長室というホームを利用している点で共通していることを指摘。さらにイスラエル王ダビデやクリントン大統領の事件、そして聖職者らによる性的不祥事もすべて「アウェイよりホーム」である点を指摘しております。
指摘されるまで全く気がつきませんでしたが、確かにすべてホームで行われております。
さらにそこから支配欲を満たそうとする という点も指摘しております。ここ重要です。支配欲。これがカルト化の要因でもあり、またハラスメントの要因でもあります。
キリストの福音により支配欲はきよめられていくはず。しかし、それがなぜか権力ある地位に着くと、きよめられるどこから一層支配欲が増してしまう。支配欲という罪を足場として、そこに悪魔的な力が働くのでしょう。
イエスさまは40日間の荒野においてサタンから権力欲(支配欲)の誘惑を受けましたが、打ち勝たれました。そしてそれは荒野の出来事だけではなくご生涯すべてに見られるものであり、わけても十字架がそうであります。
そういう意味では権力欲(支配欲)を満たそうとする生き方はイエスさまの十字架の生き方とは正反対と言わざるを得ませんね。
ところでなぜ、アウェイよりホームを選ぶのか。ご指摘の支配欲の満たしのほかがあるとするなら、たぶん安心感もあるのではと思いました。権力者は普通の人以上に怖がりであり、案外臆病なのでは。それにそういうスキャンダラスのことをしながら、そのために今の地位と名誉を失いたくないために慎重になっている。だら、何が起こるかわからないアウェイよりもかって知るホームの方が安心だと考えているのかもしれません。何も失う恐れのない無鉄砲な人間ならアウェイだろうがぶどう畑だろうがかまわずかような行為に励むのでしょうが・・・
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「教会のカルト化」とハラスメントは関連すれども区別すべき
https://inadaniboxi.blog.ss-blog.jp/2010-03-27
「教会のカルト化」とハラスメント(セクハラ・パワハラ)は関連すれども区別すべきことがらである。「教会のカルト化」による被害の1つとしてハラスメントが上げられる。しかしハラスメントだけがカルト化による被害のすべてではない。一方、ハラスメントがあってもカルト化とは無関係の場合もある。カルト化とハラスメントを区別することが両者の理解を深めることに役立ち、よりよい対策につながるであろう。
カルト化・マインドコントロール
inadaniboxi
2010-03-27T00:00:00+09:00
「教会のカルト化」による被害の1つとしてハラスメントが上げられる。しかしハラスメントだけがカルト化による被害のすべてではない。
一方、ハラスメントがあってもカルト化とは無関係の場合もある。
カルト化とハラスメントを区別することが両者の理解を深めることに役立ち、よりよい対策につながるであろう。
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マインドコントロール下に置かれている者の感情を想像すること、など
https://inadaniboxi.blog.ss-blog.jp/2010-03-24
「マインドコントロール」とは「明らかに違反(教義違反、不道徳行為、不法行為、反社会的行為、あるいは信念や良心に反することなど)であると知りつつ、組織の指導者の言説を、あたかも自分の意志であるかのように判断し行動すること」である。幾つかの組織で発生した事件やハラスメントの、そのすべてがマインドコントロール下にあったと言うつもりは毛頭ないけれども、ただ、その中の幾つかはマインドコントロール下にあったと推測される。被害者たちも自分は指導者のマインドコントロール下にあったと証言している。性被害者についても、内心ではこれはいけないことだと知りつつも、一方では指導者の命令に逆らうことの方を恐れたために、指導者の性犯罪に対して抗拒不能であった。これが準○○罪の抗拒不能の意味するところであろう。マインドコントロールについて理解に乏しい人々は、マインドコントロール下にある者の感情(特に恐怖心)を想像できないために。「いけないと分かっているなら、なぜ最後まで抵抗しないのか」とか「被害者にも非があるのではないか」と思うだろう。確かに、マインドコントロールを経験したことのない人にとって、マインドコントロール下にある者の感情は分からないだろう。しかし経験がなくても思索することはできる。思索によって人間は、かなり想像できるものである。要は、理解しようとするかしないかの問題である。密室で何が起こっているか?外にいる人間には全く分からない。そして一般的には、被害を訴える者の声を聞いても、そんなことはありえないと決め付けやすい。特に「バランスの取れた(と自負している)」人間はそういう判断をしがちである。もちろん、被害の訴えの全てが必ずしも真実であるとは限らない。そこには虚偽や誤解、針小棒大なこともあるだろう。しかし、もし被害者の感情があるならば、やはり密室で何かがあったのである。密室で何かがあったということは想像できるはずである。被害者から相談を受けた人は、それぐらいのことはしていただきたい、と私は願う。しかし、それはたぶん絶望的な願いであるけれども。これは私の印象でしかないのだが、カルトやハラスメント被害者の相談に乗っている人は、ややアンバランスな人である。相談を受けると「やはり」と思うのは、このアンバランスな人間である。逆に、「バランスの取れた(と自負している)」人は、そのような相談に乗れる人はほとんどいない。相談されても「まさか」と思ってし..
カルト化・マインドコントロール
inadaniboxi
2010-03-24T00:00:00+09:00
幾つかの組織で発生した事件やハラスメントの、そのすべてがマインドコントロール下にあったと言うつもりは毛頭ないけれども、ただ、その中の幾つかはマインドコントロール下にあったと推測される。被害者たちも自分は指導者のマインドコントロール下にあったと証言している。性被害者についても、内心ではこれはいけないことだと知りつつも、一方では指導者の命令に逆らうことの方を恐れたために、指導者の性犯罪に対して抗拒不能であった。これが準○○罪の抗拒不能の意味するところであろう。
マインドコントロールについて理解に乏しい人々は、マインドコントロール下にある者の感情(特に恐怖心)を想像できないために。「いけないと分かっているなら、なぜ最後まで抵抗しないのか」とか「被害者にも非があるのではないか」と思うだろう。確かに、マインドコントロールを経験したことのない人にとって、マインドコントロール下にある者の感情は分からないだろう。しかし経験がなくても思索することはできる。思索によって人間は、かなり想像できるものである。要は、理解しようとするかしないかの問題である。
密室で何が起こっているか?外にいる人間には全く分からない。そして一般的には、被害を訴える者の声を聞いても、そんなことはありえないと決め付けやすい。特に「バランスの取れた(と自負している)」人間はそういう判断をしがちである。もちろん、被害の訴えの全てが必ずしも真実であるとは限らない。そこには虚偽や誤解、針小棒大なこともあるだろう。しかし、もし被害者の感情があるならば、やはり密室で何かがあったのである。密室で何かがあったということは想像できるはずである。被害者から相談を受けた人は、それぐらいのことはしていただきたい、と私は願う。しかし、それはたぶん絶望的な願いであるけれども。
これは私の印象でしかないのだが、カルトやハラスメント被害者の相談に乗っている人は、ややアンバランスな人である。相談を受けると「やはり」と思うのは、このアンバランスな人間である。逆に、「バランスの取れた(と自負している)」人は、そのような相談に乗れる人はほとんどいない。相談されても「まさか」と思ってしまい、心にブレーキがかかってしまうのだろう。それは致し方ないのかもしれない。しかし、そのために問題がある。アンバランスな人は相談相手としてはふさわしいが、解決方法がやや極端に振れる印象がある。そのために解決が解決になっていないかもしれない。やはり相談から解決に向かっては、バランスの取れた人間の方が好ましいと私は思っている。
相談相手には、密室で何が起こっているかを想像できる人、あるいは被害者の感情に寄り添える人。
解決者には、冷静にバランスよく良識的に対処できる人。
この両者の協力が必要である、と私は思う。
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教会のカルト化メモ3.11
https://inadaniboxi.blog.ss-blog.jp/2010-03-11
色々と役目が重なりしばらくブログを更新できないでおりました。今後もしばらく更新できないかもしれません。読者の皆様にはお待たせすることになりますが、よろしくお願いいたします。とりあえずメモを記しておきます。メモの数字の順番に意味はありません。1. 「教会のカルト化」およびまたは「牧師の不祥事」について、他人事とせず自分達自身の問題として受け止める声が増えているようである。教会のメタノイアとして良い方向に進んでいると思う。2. 「教会のカルト化」は、より正確に言うならば「一部の教会に、破壊的カルトと類似の被害が見られる、あるいはその危険性」のことである。決して「キリスト教会全体が破壊的カルト化している」という意味ではない。このような誤解を生じさせないために「教会のカルト化」という表現を改める必要があると思う。3. カルト化は福音に反する。4. カルト化している教会はごく一部であって、キリスト教会全体がカルト化しているわけではない。ただし、カルト化を生み出す要因の幾つかが、カルト化していない教会においてもあるのではないかという疑いも持っている。むろんそのような要因があるからといって即カルト化状況を生み出すとわけではないだろうけれども、そのような要因はキリストの福音に照らし合わせるならば、やはりきよめられなければならないと思う。5. 性犯罪など牧師の不祥事は、教会のカルト化とは関連するが区別すべきことがらである。つまり、カルト化しなくても性犯罪は起こりうる。また性犯罪を伴わないカルト化もありうる。6. カルト化とパワハラも、関連するが区別すべきことがらであろう。7. 牧師の不祥事に対する対策は牧師の心得が大であるが、教会のカルト化は牧師の心得では対処できない。8. 教会のカルト化は集団心理である。9. 「牧師に従え」「牧師に逆らうな」「目に見える牧師に従えない人が、目に見えない神に従うことはできない」「牧師の問題は神が取り扱うから、信徒が牧師を咎める必要がない」「○○先生の弟子」「教会の一致を乱す」「皆で決めたことに逆らうのか」という言説について。10. 競争心、焦り、プレッシャー(特に教勢や会堂建築に対する)、自意識過剰、自己正当化、無知・無力に対する恐れ、「熱心でない」ことに対する恐れ、マンネリズムに対する恐れ、支配欲とその反動としての怒り、自己顕示欲、虚栄心、評判、劣等感と優越感、バッシングとバッシング回避、コミュ..
カルト化・マインドコントロール
inadaniboxi
2010-03-11T00:00:00+09:00
1. 「教会のカルト化」およびまたは「牧師の不祥事」について、他人事とせず自分達自身の問題として受け止める声が増えているようである。教会のメタノイアとして良い方向に進んでいると思う。
2. 「教会のカルト化」は、より正確に言うならば「一部の教会に、破壊的カルトと類似の被害が見られる、あるいはその危険性」のことである。決して「キリスト教会全体が破壊的カルト化している」という意味ではない。このような誤解を生じさせないために「教会のカルト化」という表現を改める必要があると思う。
3. カルト化は福音に反する。
4. カルト化している教会はごく一部であって、キリスト教会全体がカルト化しているわけではない。ただし、カルト化を生み出す要因の幾つかが、カルト化していない教会においてもあるのではないかという疑いも持っている。むろんそのような要因があるからといって即カルト化状況を生み出すとわけではないだろうけれども、そのような要因はキリストの福音に照らし合わせるならば、やはりきよめられなければならないと思う。
5. 性犯罪など牧師の不祥事は、教会のカルト化とは関連するが区別すべきことがらである。つまり、カルト化しなくても性犯罪は起こりうる。また性犯罪を伴わないカルト化もありうる。
6. カルト化とパワハラも、関連するが区別すべきことがらであろう。
7. 牧師の不祥事に対する対策は牧師の心得が大であるが、教会のカルト化は牧師の心得では対処できない。
8. 教会のカルト化は集団心理である。
9. 「牧師に従え」「牧師に逆らうな」「目に見える牧師に従えない人が、目に見えない神に従うことはできない」「牧師の問題は神が取り扱うから、信徒が牧師を咎める必要がない」「○○先生の弟子」「教会の一致を乱す」「皆で決めたことに逆らうのか」という言説について。
10. 競争心、焦り、プレッシャー(特に教勢や会堂建築に対する)、自意識過剰、自己正当化、無知・無力に対する恐れ、「熱心でない」ことに対する恐れ、マンネリズムに対する恐れ、支配欲とその反動としての怒り、自己顕示欲、虚栄心、評判、劣等感と優越感、バッシングとバッシング回避、コミュニケーションギャップ、事なかれ主義・・・
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権威を持つ者は危険な立場に立つ
https://inadaniboxi.blog.ss-blog.jp/2010-03-04
小さな命を守る会代表水谷潔先生のブログ「命と性の日記~日々是命、日々是性」で当ブログを紹介していただいたためでしょうか、ここ数日アクセスが非常に増えております。アクセス数の伸びはうれしくもあり恐ろしくもあります。気を引き締めて取り掛からねば。水谷先生には、15年前の特伝での出会いを覚えていてくださり感謝いたします。今後ともよろしくお願いいたします。個人的な話はさておき。教会のカルト化記事の続きです。カルト化の背景に権威主義があることは、既に各所で指摘されております。権威主義だけが原因ではありませんが、それが要因の一つであることはまず間違いないでしょう。権威主義は教会だけの問題ではありませんが、しかし教会は権威ある務めが存在するところですから、権威主義が生じる危険性はあるわけです。※注 権威と権威主義は別物です。権威・・・自発的に同意・服従を促すような能力や関係のこと。(wikiより)権威主義・・・意思決定や判断において自分の頭で考えたり情報を集めずに権威に盲従する態度。あるいは意思決定の場において、論理的説明を省略し、権威に対する盲従を他者に要求する態度を指す。(wikiより。下線は引用者による)すべての教会が権威主義的だというのではありません。多くの牧師たちは権威主義ではないと思います。しかし権威主義に陥る可能性はあります。牧師の権威の危険性について、ユージーン・ピーターソンが著書『牧会者の神学』の中で述べている箇所が有益だと思いましたので、読者の方々にもご紹介いたします。「第3章 霊的導き」の中から牧師の権威と服従について述べている箇所があります。少々長めの引用をすることをお許しください。より健全な時代においては当然とみなされてきたものが広範に失われたことによって、牧師は(ほとんど意識することなく)途方もない危険の中に置き去りにされてしまった。そしてその残骸がたくさん積み重なることになったのである。すなわち、祈らない牧師、信仰的に成長しない牧師、文化とキリスト教の相違を語らない牧師、一時的な流行を追いかける牧師、シニカルでなにもしない牧師、二十年間も祈祷を続けてきたにもかかわらず、祈りについて知るところは按手を受けた日と同じ程度でしかないような牧師、長年にわたって善意の教会員から投げかけられた「牧師さん、すばらしい説教です・・・牧師さん、すばらしい祈りです・・・牧師さん、あなたがいなければ私は・・・」というた..
カルト化・マインドコントロール
inadaniboxi
2010-03-04T00:00:00+09:00
小さな命を守る会代表水谷潔先生のブログ「命と性の日記~日々是命、日々是性 」で当ブログを紹介していただいたためでしょうか、ここ数日アクセスが非常に増えております。アクセス数の伸びはうれしくもあり恐ろしくもあります。気を引き締めて取り掛からねば。水谷先生には、15年前の特伝での出会いを覚えていてくださり感謝いたします。今後ともよろしくお願いいたします。個人的な話はさておき。
教会のカルト化記事の続きです。カルト化の背景に権威主義があることは、既に各所で指摘されております。権威主義だけが原因ではありませんが、それが要因の一つであることはまず間違いないでしょう。権威主義は教会だけの問題ではありませんが、しかし教会は権威ある務めが存在するところですから、権威主義が生じる危険性はあるわけです。
※注 権威と権威主義は別物です。
権威・・・自発的に同意・服従を促すような能力や関係のこと。(wiki より)
権威主義・・・意思決定や判断において自分の頭で考えたり情報を集めずに権威に盲従する態度 。あるいは意思決定の場において、論理的説明を省略し、権威に対する盲従を他者に要求する態度 を指す。(wiki より。下線は引用者による)
すべての教会が権威主義的だというのではありません。多くの牧師たちは権威主義ではないと思います。しかし権威主義に陥る可能性はあります。
牧師の権威の危険性について、ユージーン・ピーターソンが著書『牧会者の神学』の中で述べている箇所が有益だと思いましたので、読者の方々にもご紹介いたします。「第3章 霊的導き」の中から牧師の権威と服従について述べている箇所があります。少々長めの引用をすることをお許しください。
より健全な時代においては当然とみなされてきたものが広範に失われたことによって、牧師は(ほとんど意識することなく)途方もない危険の中に置き去りにされてしまった。そしてその残骸がたくさん積み重なることになったのである。すなわち、祈らない牧師、信仰的に成長しない牧師、文化とキリスト教の相違を語らない牧師、一時的な流行を追いかける牧師、シニカルでなにもしない牧師、二十年間も祈祷を続けてきたにもかかわらず、祈りについて知るところは按手を受けた日と同じ程度でしかないような牧師、長年にわたって善意の教会員から投げかけられた「牧師さん、すばらしい説教です・・・牧師さん、すばらしい祈りです・・・牧師さん、あなたがいなければ私は・・・」というたぐいの、でまかせのお世辞の文句によって傲慢で桁外れのエゴに満たされた牧師・・・。
権威を持つ者は危険な立場に立つのである 。洗礼、信仰告白、結婚、和解、死といった人生の記憶すべき瞬間に牧師は尊厳をまとって登場し、神の権威を代理する。説教壇から、聖餐台から、そして洗礼盤から、牧師は神の権威ある言葉を告知する。あらゆる種類、あらゆる状態の人々が牧師のもとにやって来て、その口から発せられる決定的な神の言葉を聞く。人々は牧師の洞察に信頼して、自分の罪責に満ちた人生における罪や痛みを告白する。人々は牧師を権威あるものとして見上げるのである。
しかし、私たちの信仰の実践には、権威をふりまわすこととは正反対のことがら、すなわち服従の実践が含まれている。信仰とは主であるキリストに服従する行為であり、その命令に進んで応答することである。牧会上の要請として、どれほど牧師が主の名によって権威をもって語り、また行動しようとも、キリスト者としての私たちのアイデンティティーは「仕える者」としてのそれである。(E.H.ピーターソン『牧会者の神学』307ページより。下線は引用者による)
仕える者としての生。これがキリスト者のアイデンティティーでしょうし、それが権威主義に対する回答と言えるでしょう。
とはいえ、「仕える」という言葉が使われているからといってそれだけで健全な教会であるとは言えません。むしろカルト化教会においてはかなりの頻度で「仕える」という言葉が使われているようであります。ですから何に仕えているのか。その辺をしっかりと見極めることも必要でしょう。
なお、人間というものは、周囲からの賞賛を得ようとして「仕える」姿勢を取ることさえありうる、ということも付け加えさせていただきます。「自分は『仕えている』のだ」と口や態度で自己宣伝するような人間が陰では権威を振りかざしているということさえありうるのです。自分でも言い、周囲からも「仕える牧師」と認められている牧師が、問題を起こしているわけですから。
仮想の対話
A「・・・でも、あの牧師は本当に仕える先生ですよ。」
B「どうしてあなたはそう思うのですか?」
A「だって、あの牧師は『わたしほど仕える牧師はない』っていつも言ってましたから。」
B「でもそれは、本人が自分でそう言っているだけなのでしょう?」
A「いいえ。それだけではありません。あの牧師は私たちの生活の細かい点まで徹底的に指導してくださるのです。ここまでしてくださる牧師を私は知りません。あの牧師こそ本当に仕える牧師だと思います。」
B「それって本当に仕えていることになるのですか?誰に仕えているのですか?」
A「えっ・・・」
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卞在昌容疑者起訴
https://inadaniboxi.blog.ss-blog.jp/2010-02-19
2日遅れの記事上げ宗教法人代表を起訴=女性信者に乱暴-水戸地検(時事通信より) 宗教法人代表が信者の女性に乱暴した事件で、水戸地検は17日、準強姦(ごうかん)の罪で、「小牧者訓練会」代表で「国際福音キリスト教会」の主任牧師、卞在昌容疑者(61)を起訴した。 起訴状によると、卞容疑者は、2007年2月17日、茨城県つくば市の教会内で、信者の女性に「神に背いて悲惨な人生を歩まないためには指示に従うしかない」と信じ込ませ、抵抗できない状態に陥らせて乱暴したとされる。(2010/02/17-19:24)宗教法人性的暴行:牧師を準強姦罪で起訴 被害者団体「裁判で真相を」 /茨城(毎日新聞より)つくば市に拠点を置くキリスト教系宗教法人「小牧者(しょうぼくしゃ)訓練会」であった性的暴行事件で、水戸地検土浦支部は17日、同会牧師で韓国籍の卞在昌(ビョンジェチャン)容疑者(61)=土浦市=を準強姦(ごうかん)罪で水戸地裁土浦支部に起訴した。 起訴状によると、卞被告は07年2月17日ごろ、つくば市内の同会教会で県内在住の20代女性信者に対し、神に背いて悲惨な人生を歩まないためには卞被告の指示に従うしかないと思いこませ、暴行したとしている。 地検土浦支部によると、卞被告は事件前からこの女性信者に「(自分は)神から権威を与えられた特別な牧師で、神と同じように従わなければ苦難を受けて荒野の人生を歩む」と何度も説教していたという。 起訴を受け、元信者らによる被害者団体「モルデカイの会」は「(卞被告は)絶対的権威を利用し(被害を)訴えることは罪だと被害者に信じ込ませてきた。裁判で、真相が明らかにされることを望む」とコメントを出した。被害者代理人の斎藤大弁護士によると、被害者を抵抗できない心理状態に陥らせたうえでの事件は立証が難しく、裁判例が少ないため、起訴は被害防止に意義があるという。【原田啓之、高木昭午】逮捕時と同じく準強姦罪での起訴となりました。地検は卞容疑者の嫌疑は十分と判断したのでしょう。裁判の行方に注目したいです。本件は準強姦という被害者女性の抗拒不能に乗じて強姦をしたという内容です。報道や被害者団体の発表にあるように、卞容疑者はかねてより自身の絶対的権威を主張し、自己への不従順に対する脅しもしていたことで、それが信者らに対するマインドコントロールになっていたと推測されます。そしてそのマインドコントロールによって被害者女性が卞容疑者..
カルト化・マインドコントロール
inadaniboxi
2010-02-19T00:00:00+09:00
宗教法人代表を起訴=女性信者に乱暴-水戸地検 (時事通信より)
宗教法人代表が信者の女性に乱暴した事件で、水戸地検は17日、準強姦(ごうかん)の罪で、「小牧者訓練会」代表で「国際福音キリスト教会」の主任牧師、卞在昌容疑者(61)を起訴した。
起訴状によると、卞容疑者は、2007年2月17日、茨城県つくば市の教会内で、信者の女性に「神に背いて悲惨な人生を歩まないためには指示に従うしかない」と信じ込ませ、抵抗できない状態に陥らせて乱暴したとされる。(2010/02/17-19:24)
宗教法人性的暴行:牧師を準強姦罪で起訴 被害者団体「裁判で真相を」 /茨城 (毎日新聞より)
つくば市に拠点を置くキリスト教系宗教法人「小牧者(しょうぼくしゃ)訓練会」であった性的暴行事件で、水戸地検土浦支部は17日、同会牧師で韓国籍の卞在昌(ビョンジェチャン)容疑者(61)=土浦市=を準強姦(ごうかん)罪で水戸地裁土浦支部に起訴した。
起訴状によると、卞被告は07年2月17日ごろ、つくば市内の同会教会で県内在住の20代女性信者に対し、神に背いて悲惨な人生を歩まないためには卞被告の指示に従うしかないと思いこませ、暴行したとしている。
地検土浦支部によると、卞被告は事件前からこの女性信者に「(自分は)神から権威を与えられた特別な牧師で、神と同じように従わなければ苦難を受けて荒野の人生を歩む」と何度も説教していたという。
起訴を受け、元信者らによる被害者団体「モルデカイの会」は「(卞被告は)絶対的権威を利用し(被害を)訴えることは罪だと被害者に信じ込ませてきた。裁判で、真相が明らかにされることを望む」とコメントを出した。被害者代理人の斎藤大弁護士によると、被害者を抵抗できない心理状態に陥らせたうえでの事件は立証が難しく、裁判例が少ないため、起訴は被害防止に意義があるという。【原田啓之、高木昭午】
逮捕時と同じく準強姦罪での起訴となりました。地検は卞容疑者の嫌疑は十分と判断したのでしょう。裁判の行方に注目したいです。
本件は準強姦という被害者女性の抗拒不能に乗じて強姦をしたという内容です。報道や被害者団体の発表にあるように、卞容疑者はかねてより自身の絶対的権威を主張し、自己への不従順に対する脅しもしていたことで、それが信者らに対するマインドコントロールになっていたと推測されます。そしてそのマインドコントロールによって被害者女性が卞容疑者の性行為に対して抗拒不能状態になっていたと思われます。
ところで従来裁判所は宗教被害に対するマインドコントロールの影響についてあまり踏み込んだ判断をしてこなかったようです。しかし今回の件についてはマインドコントロール(あるいはカルト化)についてある程度踏み込んだ判断がなされるのではないかと期待いたします。強姦罪ではなく準強姦罪ですから、被害者の抗拒不能状況を生み出した背景があるわけです。抗拒不能を作った原因が牧師の絶対的権威の主張にあるとすれば、まさにその問題の認識が今後一層広まっていくのではないか。そのことによってマインドコントロールの危険性を認識し、予防と対策へと向かわせる契機となることを願います。
私はこの事件の背後には、今日のキリスト教会に蔓延する歪んだ規範意識と権威主義があると考えております。本件を特殊な事例として退けず、今日のキリスト教会が抱えている問題の表面化であると捉えることが大事だと思います。そしてこの問題がキリストの光と聖霊の力によって福音的に解決され本来あるべき規範性と権威が教会の中に回復されていって欲しい。そのように願っております。
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小牧者訓練会のパワハラ3
https://inadaniboxi.blog.ss-blog.jp/2010-02-06
(3)継続性(頻繁さ)陰湿な嫌がらせを再三受けて(「事案の概要」より)小牧者訓練会のパワハラが頻繁に行われていることが被害者側から訴えられています。同様の継続性(頻繁さ)は、たとえばハレルヤコミュニティーチャーチ浜松教会の榊山清志牧師によるセクハラ・暴力事件に対する静岡地裁浜松支部の判決文(2008年5月19日)においても以下のように認められています。しつけと称して,こたつの脚,フライパン,ドラムのステイックなどで腎部や足の裏を叩いたり,素手で顔を叩いたりといった暴力を日常的に加えていた。(判決文中の「当裁判所の判断」より。下線は引用者による)(なお榊山氏に関する判決では暴力・セクハラの事実は認められたものの、時効を理由に損害賠償請求は却下されました。詳しくは判決文をご覧ください。)パワハラの判断基準に、その行為の継続性(頻繁さ)があげられます。以下、涌井美和子『職場のいじめとパワハラ防止のヒント』より該当部分を引用します。パワー・ハラスメント判断基準;その2 時間的経過について 行為の発生過程と頻度;身体的暴力など,たった1回でもパワー・ハラスメントに該当する可能性があるものもあるが,多くは,何度か繰り返されるうちにパワー・ハラスメントになる可能性が高くなる。とくに,単発的に繰り返されるのではなく,だんだん強迫的あるいは執拗に繰り返されるようになっていたり,行為者が支配的になっていったり,苛立ちがみられるようになるなど,時間の経過とともに,質や内容が変わっているのであれば,パワー・ハラスメントに該当する可能性が高くなる。(「第1章 パワー・ハラスメントとはどのような行為か」26ページより)(なお本書では、パワハラの判断基準が4つ示されております。本書はパワハラを理解する上で有用です。いずれ機会があれば本ブログでも取り上げたいと思います。)涌井氏が示した判断基準の説明から次の2つのことが言えます。いずれもパワハラというものの性質からきております。1つはパワハラというものが必ずしも直接的な身体的暴力によらないということです(そもそもパワハラという概念は、暴力では捉えきれない被害を概念化する必要から生まれました)。直接の身体的暴力があれば傷害事件となりますが、そうでない場合は程度問題とされ、第三者から見てもその判断が非常に難しくなります。したがって明らかに悪質なものを除けば、1度の言動だけをもってしてパワハラと判断す..
ハラスメント
inadaniboxi
2010-02-06T00:00:00+09:00
陰湿な嫌がらせを再三受けて(「事案の概要 」より) 小牧者訓練会のパワハラが頻繁に行われていることが被害者側から訴えられています。同様の継続性(頻繁さ)は、たとえばハレルヤコミュニティーチャーチ浜松教会の榊山清志牧師によるセクハラ・暴力事件に対する静岡地裁浜松支部の判決文 (2008年5月19日)においても以下のように認められています。しつけと称して,こたつの脚,フライパン,ドラムのステイックなどで腎部や足の裏を叩いたり,素手で顔を叩いたりといった暴力を日常的に加えていた。 (判決文中の「当裁判所の判断」より。下線は引用者による) (なお榊山氏に関する判決では暴力・セクハラの事実は認められたものの、時効を理由に損害賠償請求は却下されました。詳しくは判決文をご覧ください。)
パワハラの判断基準に、その行為の継続性(頻繁さ)があげられます。以下、涌井美和子『職場のいじめとパワハラ防止のヒント』より該当部分を引用します。パワー・ハラスメント判断基準;その2 時間的経過について
行為の発生過程と頻度;身体的暴力など,たった1回でもパワー・ハラスメントに該当する可能性があるものもあるが,多くは,何度か繰り返されるうちにパワー・ハラスメントになる可能性が高くなる。とくに,単発的に繰り返されるのではなく,だんだん強迫的あるいは執拗に繰り返されるようになっていたり,行為者が支配的になっていったり,苛立ちがみられるようになるなど,時間の経過とともに,質や内容が変わっているのであれば,パワー・ハラスメントに該当する可能性が高くなる。(「第1章 パワー・ハラスメントとはどのような行為か」26ページより) (なお本書では、パワハラの判断基準が4つ示されております。本書はパワハラを理解する上で有用です。いずれ機会があれば本ブログでも取り上げたいと思います。)
涌井氏が示した判断基準の説明から次の2つのことが言えます。いずれもパワハラというものの性質からきております。
1つはパワハラというものが必ずしも直接的な身体的暴力によらないということです(そもそもパワハラという概念は、暴力では捉えきれない被害を概念化する必要から生まれました)。直接の身体的暴力があれば傷害事件となりますが、そうでない場合は程度問題とされ、第三者から見てもその判断が非常に難しくなります。したがって明らかに悪質なものを除けば、1度の言動だけをもってしてパワハラと判断することは非常に難しくなります。しかし繰り返しなされるなら、それはパワハラと認定される可能性が高いということです。
2つめは、そもそもなぜパワハラは繰り返し行われるかという点です。加害者の心理は様々であり、加害者の自覚の程度もまちまちですが、加害者は被害者を自分に服従させたいという動機が根底にあることはだいたい共通しております。加害者はより支配を強める方向に行為をエスカレートしていきます。やがて被害者を自分の意のままに支配することに限界を感じたり被害者が防衛的になると、加害者は被害者を破壊と抹殺(いわゆる排斥)するようになります(涌井、18ページ)。このように、パワハラとはよりエスカレートし、内容も変化することが多いものです。ただし必ずしもすべてが時系列に沿って深刻化するとは限りませんので個々の事例について判断する場合は注意が必要です。要は、パワハラとは、その性質上、一度限りで終わることではなく、頻繁に繰り返されるものである、ということです。
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小牧者訓練会のパワハラ2
https://inadaniboxi.blog.ss-blog.jp/2010-02-05
(2)適正な範囲の超過上位者の下位者に対する言動が、果たして適正な範囲のものであるかどうか。これがパワハラ判断基準の一つであるといえます。ただし、その言動が適正な範囲を越えていると感じるかどうか「する側」と「される側」では大きく異なります。パワハラをする側は、自分の言動は適正の範囲内にあると思っているでしょう。たとえ度を越したとしても、「少々やりすぎたかもしれないが、これぐらいは普通だ」と自分を納得させるでしょう。一方「される側」にとっては、適正な範囲にあるとは思えないでしょう。ただし、マインドコントロールの下にあるならば「される側」もこれは正しいことだと納得しやすくなります。これが一般社会におけるパワハラよりも深刻化させる原因になっています。教会においては、いじめや人格攻撃ということはそもそもありえないものですが、マインドコントロールの下にある教会では、いじめや人格攻撃が「訓練」の名の下に正当化されてしまいます。小牧者訓練会でのパワハラ被害の事例を見てみましょう。内容は「被告Xの不法行為(その1)」(モルデカイの会による)に基づいております。それによれば、スクワット200回、密室での延々とした脅し、寮生や外国人牧師の面前での罵倒、深夜の呼び出し怒鳴りつけ、が具体的事例としてあげられています。詳細は当該記事をお読みください。被害者からすれば、まったく理不尽な行為であり、第三者的に見てもこれが適正の範囲をはるかに超えていることは明白です。被害者(伝道師)は当初は加害者(上位教職者)に抵抗は示すものの、徐々に逆らうことができず、ただただ恐怖心を抱くようになり、無抵抗となっていきました。典型的なカルト化教会におけるパワハラ被害と言えるでしょう。
ハラスメント
inadaniboxi
2010-02-05T00:00:00+09:00
上位者の下位者に対する言動が、果たして適正な範囲のものであるかどうか。これがパワハラ判断基準の一つであるといえます。ただし、その言動が適正な範囲を越えていると感じるかどうか「する側」と「される側」では大きく異なります。パワハラをする側は、自分の言動は適正の範囲内にあると思っているでしょう。たとえ度を越したとしても、「少々やりすぎたかもしれないが、これぐらいは普通だ」と自分を納得させるでしょう。一方「される側」にとっては、適正な範囲にあるとは思えないでしょう。ただし、マインドコントロールの下にあるならば「される側」もこれは正しいことだと納得しやすくなります。これが一般社会におけるパワハラよりも深刻化させる原因になっています。教会においては、いじめや人格攻撃ということはそもそもありえないものですが、マインドコントロールの下にある教会では、いじめや人格攻撃が「訓練」の名の下に正当化されてしまいます。
小牧者訓練会でのパワハラ被害の事例を見てみましょう。内容は「被告Xの不法行為(その1) 」(モルデカイの会による)に基づいております。それによれば、スクワット200回 、密室での延々とした脅し 、寮生や外国人牧師の面前での罵倒 、深夜の呼び出し怒鳴りつけ 、が具体的事例としてあげられています。詳細は当該記事をお読みください。被害者からすれば、まったく理不尽な行為であり、第三者的に見てもこれが適正の範囲をはるかに超えていることは明白です。
被害者(伝道師)は当初は加害者(上位教職者)に抵抗は示すものの、徐々に逆らうことができず、ただただ恐怖心を抱くようになり、無抵抗となっていきました。典型的なカルト化教会におけるパワハラ被害と言えるでしょう。
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小牧者訓練会のパワハラ
https://inadaniboxi.blog.ss-blog.jp/2010-02-03
具体的にカルト化教会におけるパワハラ被害の実態について見ていきたいと思います。ただ、一般の会社におけるパワー・ハラスメント(パワハラ)被害の実態については本やネットで知ることができますが、教会におけるパワハラ被害の実態についてはほとんど公にされておりませんので実態がつかみにくいのが実情です。このような状況においては、パワハラ訴訟の存在は実態把握の参考になります。去る2009年12月15日に、宗教法人小牧者訓練会におけるパワハラに対する民事訴訟がありました。またその概要が原告支援側(モルデカイの会)によりネット公開されています。公開されたこの概要は教会におけるパワハラの実態をつかむために貴重な資料となります。教会におけるパワハラ被害の一つのケースと言えます。パワハラ訴訟(不法行為等を理由とする損害賠償請求)の事案概要(モルデカイの会)以下、この概要を中心に取り上げてみます。なお、この内容は原告側(被害者側)に立った内容です。当然、被告側(加害者側)からの反論もあるでしょう。あるいは被害者証言のみを取り上げることへの批判もあるかもしれません。ただ、本記事の関心は裁判にではなく、あくまでもパワハラ被害の実態を知ることにありますから、その点に関して言えば、被害者側の訴えを取り上げるだけで十分であると考えられます。プロテスタント系キリスト教団小牧者訓練会(宗教法人)の創立者で教団と 下部組織の国際福音キリスト教会の主任牧師だった被告卞は、霊的指導者の自分は 絶対的権威と説いて指導原理とし、自分に服従している上位教職者の指揮命令にも 下位教職者は絶対に服従しなければならないとの教義を教団に浸透させた。 そうした環境の教団に雇用され伝道師となった原告は、教義に忠実な上位教職者の 被告Xから、陰湿な嫌がらせを再三受けて自律神経失調症を発症、その後、被告卞は、 原告の病状を知りながら、咎め、「鬱には肉体労働がさいこう(ママ)」などと 原告に肉体労働や事務労働を無給で強制し、日常的にメールや口頭で暴言を 浴びせるなどの抑圧を繰り返して、2ヶ月も経たないうちに、原告の症状は 一気に統合失調症まで悪化した。原告は労働能力の多くを奪われたが、 主任牧師や上位教職者を責めてはならないとの教義による心理的抑圧で被害を 訴えることは許されないと思い込まされていた。(「事案の概要」より)この概要をパワハラの要件に照らして見てみましょう。(1)力関..
ハラスメント
inadaniboxi
2010-02-03T00:00:00+09:00
パワハラ訴訟(不法行為等を理由とする損害賠償請求)の事案概要 (モルデカイの会)
以下、この概要を中心に取り上げてみます。なお、この内容は原告側(被害者側)に立った内容です。当然、被告側(加害者側)からの反論もあるでしょう。あるいは被害者証言のみを取り上げることへの批判もあるかもしれません。ただ、本記事の関心は裁判にではなく、あくまでもパワハラ被害の実態を知ることにありますから、その点に関して言えば、被害者側の訴えを取り上げるだけで十分であると考えられます。プロテスタント系キリスト教団小牧者訓練会(宗教法人)の創立者で教団と 下部組織の国際福音キリスト教会の主任牧師だった被告卞は、霊的指導者の自分は 絶対的権威と説いて指導原理とし、自分に服従している上位教職者の指揮命令にも 下位教職者は絶対に服従しなければならないとの教義を教団に浸透させた。 そうした環境の教団に雇用され伝道師となった原告は、教義に忠実な上位教職者の 被告Xから、陰湿な嫌がらせを再三受けて自律神経失調症を発症、その後、被告卞は、 原告の病状を知りながら、咎め、「鬱には肉体労働がさいこう(ママ)」などと 原告に肉体労働や事務労働を無給で強制し、日常的にメールや口頭で暴言を 浴びせるなどの抑圧を繰り返して、2ヶ月も経たないうちに、原告の症状は 一気に統合失調症まで悪化した。原告は労働能力の多くを奪われたが、 主任牧師や上位教職者を責めてはならないとの教義による心理的抑圧で被害を 訴えることは許されないと思い込まされていた。(「事案の概要」より)
この概要をパワハラの要件に照らして見てみましょう。
(1)力関係の利用
(2)適正な範囲の超過
(3)継続性
(4)人権侵害、精神的・肉体的苦痛、職場環境の悪化
まず(1)の力関係の利用に関して言えば、上位教職者(被告Ⅹ)と下位教職者(伝道師、原告)という明らかな力関係があります。さらに小牧者訓練会ではこの力関係をより強化する方向に教団内の空気をもっていっております。具体的には下位教職者は上位教職者に絶対に服従しなければならないとの教義を教団に浸透させていたことにあります。そしてより重要なことは、下位教職者が上位教職者に服従しなかった場合、下位教職者自身が罪意識を抱いてしまうことにあります。ここが会社におけるパワハラと大きく異なる点です。会社の場合も下位者が上位者に従わない場合、減給や解雇といった不利益を被る恐れがあるわけですが、教会におけるパワハラの場合は、深刻な罪意識を抱くことによって、より精神的苦痛を被ることになります。教会におけるパワハラ被害の方が会社のパワハラよりもより深刻な精神的ダメージを受けるといってよいでしょう。
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