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卞在昌事件 水戸地裁土浦支部 無罪判決 [ハラスメント]

東京新聞 2011年5月20日夕刊
 教会で女性信者に乱暴したとして準強姦(ごうかん)罪に問われた韓国籍のキリスト教牧師卞(ビュン)在昌(ジェーチャン)被告(62)=茨城県土浦市=の判決公判が二十日、水戸地裁土浦支部であり、神田大助裁判長は「女性の証言の信用性は否定せざるを得ない。事実を認定すべき証拠は存在しない」として無罪(求刑懲役七年)を言い渡した。検察が主張する犯行日の二〇〇七年二月十七日の卞被告のアリバイが争点となった。判決では、被告は韓国から来日した宣教師らと自宅にいたとする被告側の主張について「宣教師のデジタルカメラで撮影した写真の日時の記録や出入国記録、宿泊したホテルの予約などから客観的に裏付けられる」と認定。一方、デジカメの画像データは改ざんされたとする検察側の指摘について「撮影日時が改ざんされたことを疑わせる事情は何ら存在しない」とした。女性の証言は「不自然ないし不合理さを否めない点が少なからず存在する」と信用性を否定した。起訴状などによると、卞被告は国際福音キリスト教会主任牧師だった〇七年二月、当時信者だった二十代女性に対し「私に従わなければ悲惨な人生を歩む」などと説教して女性を信じ込ませ、つくば市内の教会で抵抗できない状態にさせて乱暴したとされる。閉廷後、卞牧師は「助けてくれた人に心から感謝する。無罪は当然という気持ち」と神妙な面持ちだった。一方、女性の支援団体「モルデカイの会」の加藤光一代表(65)は「残念な結果。密室の被害なので証明するのが難しいと実感した。検察には控訴してほしい」と訴えた。猪俣尚人・水戸地検次席検事の話 判決を詳細に検討し、上級庁と協議の上、適切に対応したい。

まさかとは思ったが、本当にまさかであった。しかし無罪判決が出てしまう可能性もあったので前回の記事では念のため予防線を張っておいたのだが、それにしてもまさか無罪判決が出るとは思っていなかった。「裁判所は真実を明らかにする場ではない」とよく言われるが、まさしく今回ほどそう思わされたことはない。このような判決が出て被害者および関係者はどれほど無念であろうか。察するにあまりある。判決についての論評は次の機会にしたい。

K元牧師性加害事件検証報告(日本ホーリネス教団) [ハラスメント]

「K元牧師性加害事件検証報告」(3/21)が日本ホーリネス教団のHPに掲載中。

小牧者訓練会・卞在昌に検察懲役7年求刑 [ハラスメント]

毎日新聞 2011年3月5日 地方版より
つくば市に拠点を置くキリスト教系宗教法人「小牧者(しょうぼくしゃ)訓練会」の信者だった20代女性に性的暴行をしたとして、準強姦(ごうかん)罪に問われた韓国籍の同会牧師、卞在昌(ビョンジェチャン)被告(62)=土浦市=の論告求刑公判が4日、地裁土浦支部(神田大助裁判長)であり、検察側は「自分の性欲を満たすために被害者の純粋な信仰心を利用した卑劣極まりない犯行」と懲役7年を求刑した。判決は5月20日に言い渡される。これに対し弁護側は「犯行がなかったことには、一点の曇りもない」と無罪を主張した。最終意見陳述で卞被告も「わいせつ行為は一切行っていない」と述べた。起訴状によると卞被告は07年2月、つくば市の教会の寝室で女性に性的暴行を加えたとしている。これまでの公判で女性は、同2月17日、同会施設内の牧師室で卞被告から「必要なのは信頼関係で、夫婦のような関係だ」と言われ「拒めば神様に見放される」という恐怖心から、精神的に抵抗できない状態で性的暴行を受けたと証言した。これに対し弁護側は「卞被告は2月17日に韓国の宣教師を接待していたので、寝室で女性と一緒にいたことはありえない」と主張、この宣教師が撮影した写真や証言をもとに、卞被告には「アリバイがある」とした。これに対し検察側は写真にある日時などのデータには、改ざんの可能性があるとしている。【橋口正】

なお、準強姦罪とは、暴行・脅迫によらず、女性の心神喪失・抗拒不能に乗じ、又は女性を心神喪失・抗拒不能にさせて姦淫すること(刑法178条2項)。強姦が力ずくによる姦淫であり、準強姦は抵抗できない状態の女性を強姦することである。「準」の文字がつくからといって、準強姦罪が強姦罪より軽いという意味ではまったくない。準強姦罪の量刑の適用範囲等は強姦罪と同じである。なお強姦罪と強制猥褻罪の違いは各自参照のこと。

ところで、刑事訴訟においては、たとえ被告がクロであっても、有罪が立証されなければ無罪とされる。したがって、もし万一、5/20に無罪判決が出たとしても、被告が無実であることを必ずしも意味するわけではない、ということは押さえておくべきである。

(3/6追記。民事裁判では被告が有罪であっても、検察が不起訴処分にしたり、あるいは起訴しても刑事裁判で無罪になることがある。これは刑事裁判と民事裁判の違いによる。たとえば1993年の藤沢放火殺人事件。当初検察は嫌疑不十分で不起訴処分とした。しかし被害者遺族が民事訴訟を起こし、民事裁判で殺人認定を得た。そこから逆に刑事訴訟が起こった。だが1審では立証できず無罪判決。そして上告し2審で有罪となった。このように刑事と民事では判決が異なることがある。刑事と民事の違いを単純に説明すれば、刑事裁判では「疑わしきは被告の利益」で、一方民事裁判は、原告と被告の証拠の優劣によって決まる、ということ。したがって、誤解を恐れず言うならば、刑事裁判はクロでも無罪になることがあるが、民事裁判ではクロならば有罪となる。上述の、「刑事裁判では被告がクロでも立証できなければ無罪とされる。」とはそういうことである。「刑事裁判で無罪となったからといって無実というわけではない」と言ったのはそういう意味である。)

(3/7追記。電車痴漢の話があったので、ここで電車痴漢と本件の違いについて説明を加えておく。まず電車痴漢の冤罪は、人違いか、あるいは、接触の思い込みによる。人違いとは、電車内には不特定多数の乗客が存在するために、たまたま近くにいた無実の人を行為者として誤ってしまうことである。接触の思い込みとは、混雑した車内において偶発的な身体接触を痴漢と思い込むことである。一方、本件の場合。被告以外の被疑者は存在しないので人違いはない。また本件は軽犯罪でも準強制わいせつ罪でもなく、準強姦罪である。強姦は意図的であり、偶発的な強姦はない。このように本件は電車痴漢とは大きく異なる。したがって、もし仮に本件が冤罪だとすれば、被害者の訴えが虚偽であるという以外にありえない。被害者の訴えが虚偽かどうかについて私の立場から述べることはできないけれども、少なくとも複数の女性被害者が存在するということから訴えが虚偽の蓋然性は低いと言える。)
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人権とキリスト教#3 人権理解の神学的基本モデル [人権の神学]

 人権について教会はどのように対処すべきか。このような問いが生じる背景には、そもそも人権という概念が聖書的かどうかはっきりしないという点にもある。今日では教会において人権概念はおおむね肯定的に受容されているといえよう。しかしながら最初からそうだったのではない。人権思想が登場してきたとき、ローマ・カトリック教会もドイツ・プロテスタント教会もこの人権思想に対しては当初からほぼ一貫して批判的な態度を取り続けてきた。その態度が180度転換するのは第二次世界大戦以降である。それはナチ国家とスターリン主義国家という反教会的国家による人間の尊厳に対する侵害(W.フーバー/H.E.テート著『人権の思想 法学的・哲学的・神学的考察』(河島幸夫訳、新教出版社、1980年、pp.73)がきっかけである。現代ではローマ・カトリック教会もドイツ・プロテスタント教会も人権擁護の側に立っていると言えよう。この辺りの経緯についてはヴォルフガンク・フーバーとハインツ・エドゥアルド・テートの『人権の思想』に詳しいのでここでは述べない。

 人権を神学的にどう基礎付けるのか。そもそも人権を神学的に基礎付けることが可能なのか。それとも、いわゆる「人道的エートス」に道を譲るのか。フーバーとテートは人権理解の神学的基本モデルとして次の5つをあげ、それぞれに批評を加えている(前掲書、pp.76-87)。それをここで紹介したい。以下の批評はフーバーとテートによる批評であり、私、伊那谷牧師によるものではないことを念のため申し上げておく。ただし文章をまとめるために、フーバーとテートが使っていない言葉を使っている場合もあることをご理解いただきたい。正確な議論を求める方は前掲書に直接当たっていただきたい。

1.人権を神学的命題から直接基礎付けたり引き出そうとする考え方。
ユルゲン・モルトマンなど。
「人間に対する神の権利の中に基本的人権を位置づける。」
しかしこの考え方は、
・人権の歴史(人権が神学や教会の抵抗に会いながら実現されてきたという歴史)と調和しない。
・人権の法的性格が考慮されていない。人間に対する神の権利から人権を演繹することは、神学と法の混同である。

2.人権を二重の仕方で基礎付ける考え方。
第二バチカン公会議など。
「第一に、人間の理性によって普遍的に認識可能な「人間の尊厳」という概念に人権を基礎付ける。第二に、この「人間の尊厳」を「神の似姿」と「神の戒め」により基礎付ける。第一の基礎付けによって、キリスト者と非キリスト者において了解が成立しうると期待され、第二の仕方によって、人権の特殊キリスト教的な基礎付けを可能にする」というもの。フーバーとテートは、こうした人権の二重の基礎付けはとりわけ第二バチカン公会議の諸文書を貫く方法である、という。
しかしこの考え方は、
・カトリックの道徳教説における伝統的な方法論、「自然法」と「神の啓示」という二重の仕方、を繰り返しているように思える。こうした二重の基礎付けを結びつける方法論的な可能性はまだ明らかにされていない。
・「人間の尊厳」概念を自明のものとしているが、「人間の尊厳」概念は自明のものであるだろうか。人権の歴史における深い亀裂によって「人間の尊厳」がむしろ自明のものではないことを示している。
・人権の法的性格の解明が不十分である。

3.人権の神学的な基礎付けや正当化を断念するという考え方。
マルティン・ホーネッカーなど。
この考え方は、人権の歴史的発展から導き出されたもの。「人権は単純にキリスト教から生まれた果実でも帰結でもない。それゆえ神学的正当化という手段を使って人権をキリスト教信仰の中に囲い込むことは許されない。人権はキリスト教倫理の刻印を受けたものではなく、むしろ「普遍的な自然的エートス」(「世界社会の人道的エートス」)の表れである。一般に倫理とは原則として人間的なものにかかわるものであり、どのようなキリスト教的基礎付けも必然的に特殊性という性格が付きまとう。むしろ人権は合理的な、一般人の理解しうる人間科学の諸成果によって獲得すべきである」とする。
しかし、
・そもそも「世界社会の人道的エートス」が単純に所与のものとして前提されてよいのか。そのようなエートスがいかにして定式化されるのかは大いに問題である。それは人権を巡る議論によってはっきりと証明される。
・「普遍性」を「世俗化」や「合理化」と同一視している。他方、キリスト教信仰の内容を無造作に「特殊なもの」と性格づけられている。人権の普遍性と福音の普遍性とがいかなる関係をもっているのかという問題に対しては、人権の普遍性が無条件に承認され、逆に福音の普遍性が承認されないというのはいかがなものか。
・キリスト者と非キリスト者との間に了解を成立させるために、神学を断念するのではなく、むしろ神学で取り扱うべきである。
・人権のテーマを神学で取り扱うねらいは、キリスト教によって人権を独占することではない。むしろ人権を理解し、人権と有益にかかわるために生産的な貢献をすることである。それは福音の普遍性から出発して人権の普遍性を吟味することをも意味している。

4.人権の機能と神学的思考様式の平行関係によって人権と神学とを結びつけようという考え方。
トゥルツ・レントルフなど。
「現時点において一般的に妥当する人権の神学的基礎付けあるいは哲学的基礎付けは存在しない。一方で人権は、人間の自由と人間性が政治秩序に先立つものであることを法的現実とする機能を持つ(つまり、国家や政治は人間の自由と人間性を勝手に処理できないものである、とするのが人権の機能である)。この人権の機能に構造的に対応する神学的思考様式は義認論である。義認の教えによれば、神の恵みに基づく人間の自由は、無条件、無前提の、それゆえ勝手に処理しえない自由である。むろん義認論から人権が生じたわけではない。しかしながら、国家は個人の自由を保障する保証人となることが要請されており、ここに義認論と人権との間に構造的な共通点がある。自由という意識の、同じ歴史的展開領域に属するという歴史的パースペクティブの中で、この見解の正当性は確証される。」とする。フーバーとテートはこの見解に一定の評価を加えつつも、次の疑問も呈している。
・この考え方は人権の一義性を前提としているが、しかし現実は人権解釈を巡り論争がある。
・この考え方は、近代の政治的自由とキリスト教的自由を、あたかも必然的に一致するかのように考えられているが、しかし両者の類似性のみならず相違点も批判的に検討しなければならない。
・この考え方は、人権のうち、個人の自由の要素が前面に出ているが、人権の歴史において重要な平等と参加という要素は、後退している。

5.神学の基本的証言と人権との間に存在する類比と相違という問題意識から出発する考え方。
エーバーハルト・ユンゲル、ハインツ・エドゥアルド・テートなど。
「神が創造された義と、人間が相互関係の中で認め合う法的地位としての権利との間に一つの対応関係が存在する。キリストにおいて打ち立てられた義と、人間が世界の形成のために設け、得ようとしている権利との間には、一つの関係が存在する。なぜならこの神の義は全被造物と人間全体とに及ぶからである。両者は決して同一ではないが、そこには方向付けを示す類比性が存在する。他方、神の義と、人間の間で実現され求められる権利との間には、本質的な相違がある。この相違は、神の義に対して、一切の人間的権利が一時的で相対的な性格を持つという点に示されている。
この考え方は人権の神学的基礎付けを問題としない。なぜならそうした問題設定は、人権の歴史や現代における人権の実現という要請をも正しく受け止めることができないからである。むしろ、人権に対するキリスト教のかかわりがいかなる基礎の上になされるかを、また、人権がいかなる基礎によって神学的に理解されうるのかを、問題にする。」というものである。
テート自身がこの考え方の持ち主であることからも分かるように、前掲書ではこの考え方を肯定している。
「神の義と人間の権利の類比と相違」という考え方は説得力に富む。なによりもこの考え方により、人権概念を重視しつつも相対化しうるという点が優れている。なお神学と社会の「類比と相違」という方法論はバルトに見ることができるだろうが、その是非について論じることは今回は割愛したい。

 次回は、この「神の義と人間の権利の類比と相違」についてもう少し紹介をし、私の評価も加えたい。そして、いわゆる「教会のカルト化」やハラスメントなど、教会における人権問題について「神の義と人間の権利の類比と相違」を援用しつつ試論を述べてみたい。
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人権とキリスト教#2 人権と人格尊厳 [人権の神学]

同盟教団には人格尊厳問題委員会がある(2010年現在、活動休止中)。この委員会の名称が「人権」の語を避けている理由として故本間進委員長は次の点を挙げている。
 
・「人権」の無神論的フランス啓蒙思想へのつながりに対する懸念。
・「人権」と「人間の欲望」との混同。
・「人権」の使用に関する不毛な論争。
(委員会機関紙「人格尊厳」No.1(1997年5月22日発行)「人格尊厳問題委員会・機関紙発行に寄せて」参照)

人権に対する懸念の声の所在が委員会の中なのか外なのかは不明であるが、常識的に考えるなら委員会の外だろう。そして上記2つの人権に対する懸念に対する反論は可能である。人権思想の歴史的源泉への問いに対する反論として、イギリスやアメリカのキリスト教的な諸権利宣言をあげることは可能である。また「人権」と「人間の欲望」との混同に対する反論として、そもそも人権とは権力の非対称性における専制と圧迫に抗する法的基盤を与えるものであって人権と人間の欲望(の肥大化)は異なる概念である、と言うことは可能である。もっとも、先の懸念を持つ人々がこのような反論によって納得するか否かは別問題である。おそらく委員会内ではより深くより広く議論がなされたであろうし、そのような人権への懸念に対する反論は用意されていたことと思う。

しかし委員会発足に際し「不毛な論争」を避けるとの実践的理由から、人権への懸念に対して反論しなかった。そして委員会の名称に「人権」の語を入れることを避けて、「人格尊厳」の語を入れた。本間委員長は「人格尊厳」の語がローザンヌ誓約(1974年)の第5項に由来することを述べている。
「人間は神のかたちに似せて造られているので、一人びとりは、人種、宗教、皮膚の色、文化、階級、性別、年齢にかかわりなく、それぞれ本有的尊厳性を有すものである。」
私は、本間委員長が委員会の名称を人権問題委員会ではなく人格尊厳問題委員会にしたことは良かったと思っている。それは本間委員長も述べているように、人格尊厳がより聖書的概念であるからである。そのことについては後日述べたいと思う。

「人格尊厳」は「人権」よりも聖書的概念ではあるが、逆に「人権問題」と言えば通じることが「人格尊厳問題」と言うことによって分かりにくくさせることもある。本間委員長も「(人格尊厳問題とは)オヤツと思われる馴染みのない名称」と述べている(前掲書)。たとえば、「ハラスメントは人権問題である」と言うのと「ハラスメントは人格尊厳問題である」と言うのでは、前者の方が一般に受容されやすい。そういう不利さはあるが、それは今後の啓発によって克服されると信じたい。
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人権とキリスト教#1 [人権の神学]

超重量級のテーマに首を突っ込んでしまっている。タイトルどおりキリスト教と人権を雑考しようというものである。もとより私は人権の専門家でもキリスト教倫理の専門家でもないので、その筋の方から見たら笑止千万レベルのことを書くだろう。もとよりレフェリーのついたペーパーでもなく、正規の編集者のいる出版物でもない、ただの個人的なウェブログなので、その辺は平にご容赦願いたい。これを読まれた方の中には、あるいは「お前ごときが手を出す領域じゃねえぞ」とか「身の程知らずが分を弁えよ」とか「お前はものを知らない」というふうに思われる方もおられるかもしれないが、それは腹の中にぐっとしまいこんで看過していただけるならば真に幸甚でございます。

とりあえず何のためにこれを書こうとしているのか。企ての動機を書かねばならないだろう。実は今カルト問題対策委員会として相談窓口設置の検討をしている。この件は既に今春の同盟教団総会資料に掲載されているので同盟教団関係者は既知のことだろうし、ここまでなら不特定多数の方の目に触れるブログに載せても問題はないと思う。あくまでも相談窓口設置の検討段階であって、相談窓口設置の準備をしているわけではないことをご理解いただきたい。相談窓口設置は喫緊の課題ではあると思うが、しかしこういうデリケートな問題は周到な準備が欠かせないものである。検討の詳細についてブログに書くことは差し控えたい。

それで検討の一つとしてそもそも聖書的に、神学的な検討を加えることが不可欠であるとの認識に立ち、ただ今その作業をしているところである。「そもそも論」をやっているところである。作業としてハラスメント対策の「神学そもそも論」がまず一つあり、それを提出する前に、メモ程度のことをここに書いて、読者の批判を浴びようというのがこのカテゴリーの企てである。ついでに読者の関心に応えようという意図もある。

なお、このカテゴリーはカルト問題対策委員会から派生したものであるけれども、まったく伊那谷牧師の個人的なものであって、委員会とは独立したブログ記事であることを念のため、申し上げておく。

神学論争なので辛らつなコメントを承りたい。わかった、わからない、などの率直な感想でも結構である。みなさんどしどしお寄せくださいませ。なお読者の中には、コメントではなくメールで言いたいという方もいるかもしれない。左下に私のメールアドレスを記載してあるのでそちらをご利用いただきたい。とりあえず「てにをは」はここまでとする。



ハラスメントが人権侵害であることは論を待たない。一般社会のハラスメント対策においては「ハラスメントは人権侵害である」と語られている。またキリスト教会のハラスメント対策においても同様である。現代においては一般社会においてもキリスト教会においても「人権」という概念は受容されていると言える。しかしながら、「教会において「人権」を根拠として語ることに対しては、慎重であるべきだ」との声も少なからず存在する。むろんそれは人権を否定しようという動機からではなく、「人権」という概念が無神論的ないしは世俗的ヒューマニズムの響きを感じ取るがゆえに、単純かつ無批判に「人権」を根拠とすることに対する慎重さの表れであると言えるだろう。人権について神学的考察を避けて「人権」概念を教会に導入することはできない。

まず、この点について、同盟教団人格尊厳問題委員会が教団内での先駆的働きをしてこられた。人格尊厳問題委員会の議論を援用したい。
次におそらく人権とキリスト教についてのかなりまとまった考察をしているW・フーバー、H・E・テート共著『人権の思想 法学的・哲学的・神学的考察』(河島幸夫訳、新教出版社、現代キリスト教倫理双書、1980年)から論じたい。その他、日本キリスト教改革派教会大会・世と教会に関する委員会『キリスト教と人権―改革派世界教会会議 人権に関する証言―』(聖恵授産所出版部、1992年)などを利用したい。

今日はとりあえずここまで。

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ブログ移動のお知らせ [お知らせ]

ようこそ。伊那谷牧師の雑考2.0へ。
このブログでは、いわゆる「教会のカルト化」、マインド・コントロール、社会心理学、権威主義、ハラスメントなどについて特化したブログです。今後ともお付き合いの程よろしくお願いします。
なお本体の「伊那谷牧師の雑考」も、従来どおり継続していきますのでそちらもよろしくお願いします。
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ウェイヴ [映画・動画]

2008年ドイツ映画
日本公開2009年
監督・脚本: デニス・ガンゼル
原題:Die Welle、英語題:The Wave
ストーリー:自由な雰囲気で生徒に慕われるベンガー(ユルゲン・フォーゲル)は、校長の要請で独裁制の授業を担当することに。あまりやる気のない生徒に、「発言するときは挙手して立つ」など独裁制の実験を取り入れようと提案。しかし、ベンガーの予想を超え、独裁制に魅了された生徒たちは、学校外でも過激な活動をするようになり……。(シネマトゥデイより)

ラストシーンには驚かされた。最初の10分間は冗長に感じられたが、全体としてはテンポよく進んでいったと思う。映画の舞台はドイツの高校だが、この映画の元になった事件はアメリカの高校で起こったことである。1967年にカリフォルニア州パロ・アルト市の公立高校(Ellwood Patterson Cubberley High School、エルウッド・パターソン・カバリー高校)で歴史教師Ron Jonesロン・ジョーンズは高校生相手にドイツのナチによるファシズムについに教えていた。高校生たちは、こんな自由な時代にナチズムは起こらないし、また自分たちだったらナチのような独裁制(全体主義)には絶対反対すると言った。果たして独裁制(全体主義)は、特殊な人々による特殊な事件なのか。ロン・ジョーンズはそれを確かめるべく社会心理実験を行った。その結果、そのクラスは容易に独裁制に陥ってしまった。その影響が学校全体、そして他校にまで及んだとき、事態の深刻さと危険性を考え、ロン・ジョーンズはこの実験「ウェイブ」を解散した。独裁制は自分たちにでも起こることをカリフォルニアの高校生達は自らの体験として理解したのである(The Third Wave参照)。

実話を基にした小説として、モートン・ルー著『ザ・ウェーブ』(新樹社、小柴一訳)がある。

映画と実話を絡めた記事として以下のものがあった。参考までに。
マインドコントロールの恐怖I~その戦慄のメカニズム~

映画の中で、教師のベンガーが、独裁制のリーダーとしての立場に、いつの間にか酔ってしまっているという描写がある。組織内の支配・従属関係におけるマインドコントロールは従属側のみならず支配側にも起こる。教師ベンガーは最後までフランクで自由な人間である。最も独裁的でない人物として描かれている。にもかかわらず「リーダーとしてかしずかれることを楽しんでいる」(ベンガーの恋人教師からの指摘)のであり、それがために、「ウェイブ」の解散を遅らせてしまったのである。

マズローの欲求段階説もあるように、人間には所属欲求というものがある。ティムという登場人物がいる。ティムは家庭環境が複雑な上にいじめにもあった。ティムは現実世界に居場所を失っていた。所属欲求の不満のために、彼は「リーダーに従いたい」という思いを増加させた。他にも、移民の子、成績の悪い生徒などにもその傾向があった。

所属欲求の変形として従属欲求もあろう。人間には人を支配したいという支配欲求と、人に支配されたいという従属欲求がある。両者は同一の人間の中に同居し、また時と場合によって両者のバランスは変動する。支配欲求と従属欲求は対立的なものではなく、一体のものである。

自信を失った人々は、どのようにして自信を回復するか。大別して2つある。「私(たち)は偉大なことを成し遂げることが出来る」と思うか、「私(たち)は偉大なものに帰属している」と思うかである。そもそも人間には「偉大なものに帰属したい」という帰属欲求と「偉大なことを成し遂げたい」という達成欲求がある。社会学者の宮台真司は、先の大戦で敗れた日独伊の枢軸国側の特徴として帰属欲求があることを挙げている。枢軸国側は、連合国側の英米仏のような自力の市民革命によらず、「追いつき追い越せ」で急速な近代化を遂げた。急速な近代化のために共同体や自然が失われて疎外感を抱く者が量産され、寂しさを着地させる場所として、自らが一体化すべき国家=崇高なる共同体が見出される、と述べる(『天皇ごっこ』の解説)。達成感ではなく、「自分は偉大なものに属している」という帰属感を膨らませた。前者が英米仏で後者が日独伊と宮台真司は述べる。その分析はおおよそ合っていると思う。ただしカリフォルニア州のカバリー高校の事件のように、アメリカの高校生も帰属欲求が強いということを考えると、アメリカ人だからどうだとか、ドイツ人だからこうだ、ということはない。「自分も出来ると思いたい」という達成欲求と「自分は偉大なものに属していると思いたい」という帰属欲求は同一の人間の中に同居している。

しかし達成感を心底味わえる人間というのは実際には限られている。そのためには努力もしなければならず時間もかかる。そして時には偶発的な要因もある。小さなことでは達成感は味わえないだろう。その人の欲求の度合いにもよるのだろうが、「自分も出来ると思いたい」という達成欲求を満たす人は全体で言えばそう多くはない。そして大多数の人間は達成欲求を満たすことを諦めて、その代わりに帰属欲求を満たすほうを選ぶだろう。なぜならその方が安易だからだ。それに対する処方箋としては、それこそキリストの福音なわけだが、それはまたいずれ書こうと思う。

ぐだぐだ書いてしまったが、要するに人は容易に全体主義に陥ってしまうという話である。
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実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 [映画・動画]

2007年 日本映画
監督・製作:若松孝二
脚本:掛川正幸/出口出
音楽:ジム・オルーク
ストーリー:ベトナム戦争、パリの5月革命、中国文化大革命など、世界中が大きなうねりの中にいた1960年代。日本でも学生運動が熱を帯び、連合赤軍が結成された。革命戦士を志した坂口弘(ARATA)や永田洋子(並木愛枝)ら若者たちは、山岳ベースを設置し訓練をはじめる。厳しい訓練に追い詰められ、メンバーによる仲間同士の粛正が壮絶を極めていく。(シネマトゥデイより)


私の趣味と言えばTSUTAYAで100円で旧作DVDを借りて観ることである。旧作だから話題作でも観るのがだいぶ時間が経ってからである。いや別にTSUTAYAである必然性もないのだが近所で安く借りられるのがTSUTAYAだからという理由がその1。ついでに新書や雑誌をブラウズすることもできるというのが理由その2。学生時代にセブンイレブンに立ち寄ることが決め事だったように、定期的にTSUTAYAに行くことが今の自分の定例行事となっている。だからもしお前の趣味は何だと聞かれたら、映画鑑賞と答えずにDVDブラウズと答えることにしている。ところが実を言えばこのところ珍しく多忙感があり、ずっとDVDを借りて観ることがなかった。多忙感というのは便利な言葉だ。他人から見て客観的に多忙であるか否かは問題ではない。もとより多忙の客観的基準など存在しないのであるが。

それはともかくとして、最近ようやく「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」を借りて観ることができた。内容は大学紛争事件、山岳ベース事件、あさま山荘事件の3部構成のドキュメンタリータッチの映画である。3時間10分という長時間の上に最初の三分の一が登場人物たちの軌跡を紹介するというスタイルがやや眠気を誘いたびたび巻き戻しては観ていた。しかし山岳ベース事件からは眠気も消え、画面に釘付けとなった。総括。森恒夫と永田洋子が組織内における権力欲・支配欲そして構成メンバーによる同調圧力、傍観的態度が組織内の支配従属関係を強化する。「お前のためだ」「頑張って総括してよ」偽善的な利他的発言により目前でいじめが起こっていることを自他共に受容することができない。両眼で見ているのに見えていない。誰もノーと言えないチキンレースである。後に浅間山荘において最年少メンバーの加藤元久が「勇気がなかったんだよ!」と叫ぶ。もちろんこれは脚色であるが、つまりそういうことである。そしてとうとう虐殺死に至る。志を同じくし理想に燃える同士であるにもかかわらず悲惨なリンチに至ったのは、志も形態もことなるけれどもカルト化やパワハラと相通じるところがあると言えよう。なお山岳ベース事件についてはwiki-山岳ベース事件を参照のこと。

水草師もブログで述べているように、権力の否定は平和ではない。権力の否定は別の歪んだ権力を生むだけである。フランス革命しかり、共産主義革命しかり、連合赤軍しかりである。政治闘争の現象ではなく、おそらくすべての組織集団において存在する可能性がある。特に凝集性の高い組織、また強い理念・信条・目標設定を掲げている集団において発生しやすい。その際、既存の権力が否定される。それに取って代わるような言説が集団内において語られる。やがて醜悪な権力構造が形成される。権力を否定するだけでは権力主義は防げない。しばしばキリスト者の中で「ナイーブな」平等が語られている印象がある。しかしナイーブな平等論や権力否定は、別の、より醜悪な、権力主義を発生する温床である。

山岳ベース事件(リンチ殺人事件)の首謀者である森恒夫も永田洋子も必ずしも権力欲の強い人間ではない。森恒夫は一度は逃亡した人間であり、映画の中でも決してふてぶてしい腹黒強欲野心家のようではまるでなく、どこか臆病と陰をもっており、そしてその内心を悟られまいとして、結果的にリンチに走っていった。むろん森恒夫一人では何もできるはずがなく、それよりも組織という集団圧力が森自身の言動をも拘束していったのである。永田洋子に関しては、どちらかと言えば映画の中では女の嫉妬のために仲間をリンチのターゲットにしていったという描かれ方であった。

この映画の中で唯一の欠点と言えば、永田の心理描写が画一的というか最後まで徹底的に表面的であることにこだわったということであろうか。若松孝二監督があさま山荘事件だけではなく、その道程として山岳ベース事件にかなり突っ込んだ編集をしていることからすれば、また加藤少年に「勇気がなかったんだよ」と言わせているところからすれば、やはりこの映画の見せ場はそこにあるだろうし、森恒夫と永田洋子が描かれるはずであろう。そして森恒夫に関しては映画の前半においてある程度そのことには描かれている。それだけに永田洋子がただ「女の嫉妬」だけでリンチをしているかのように描かれているのは残念である。とはいえ、そのことはこの映画の面白さを少しも低減させるものではない。カルト問題やパワハラに関心のある方でまだ見ていない方は是非この映画を観ることをお勧めする。

他人から見てその人の内面がどう映るかというのは、もとより難しいものであって、所詮は外から眺める者の印象でしかないといえばそれまでだが、しかしそれでも見られる者と見る者の文脈によっては内面を知ることができることもある。加藤少年が「勇気がなかったんだよ」と言ったのは(繰り返すがこれは脚色である)、彼があの異常なリンチの中にいたからである。どういうことかと言えば、もし加藤少年が自分にも「総括」要求の恐れが全くないのなら、彼の憎悪は森や永田に向けられたに違いない。しかし彼もまたいつ自分に「総括」要求がされるかという恐れがあった。そしてそれを跳ね除ける勇気がなかった。彼の恐れは森や永田ではなく、彼の同志たちにある。

余談だが、途中で森と永田と坂口弘だけで話し合う場面がある。そこでは3人とも肩の力を抜いて、話し合う。彼らは組織トップであるので、彼らは組織に睨みをきかせこそすれ彼らが構成員からの圧力におびえるということはないだろうと通常は思う。しかし組織トップである彼らこそが、構成員からの圧力におびえているのである。そして3人だけになったとき、いわば「しらふ」に戻ったのである。
加藤少年はもちろんその場面を知らないが、加藤少年が恐怖と憎悪を組織トップの森や永田にではなく構成員全員に向けられていたのはそういうことである。そしてそれはただ加害者であるばかりでなく被害者となっていく者たちに対しても同様である。

加藤少年が坂東國男、吉野雅邦、加藤倫教に向かって「あんたも、あんたも、勇気がなかったんだよ」と言ったのは、そして坂口に向かって「坂口さん、あんたも勇気がなかったんだよ」と言ったのは、彼がその異常な文脈を共有していたがゆえに組織の同志たちの心理状態が見えたのである。
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es エス [映画・動画]

2001年ドイツ映画
日本公開2002年
監督:オリヴァー・ヒルシュビーゲル
原題:Das Experiment、英語題:The Experiment。
原題および英語題は「実験」の意味。
邦題「es エス」はドイツ語で「それ」。

スタンフォード監獄実験(1971年にアメリカのスタンフォード大学で実際に行われた)を元にしている。

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