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卞在昌氏 準強姦容疑で逮捕(追記あり) [カルト化・マインドコントロール]

宗教法人代表、準強姦容疑で逮捕=女性信者に乱暴-茨城県警(時事通信)
信者の女性に乱暴したとして、茨城県警捜査1課とつくば中央署は28日、宗教法人「小牧者訓練会」代表で牧師、卞在昌容疑者(61)=韓国籍=を準強姦容疑で逮捕した。同課によると、容疑を否認しているという。  逮捕容疑では、国際福音キリスト教会の最高位だった卞容疑者は2007年2月ごろ、茨城県つくば市内の教団施設内において、当時信者だった20代の女性に乱暴した疑い。(2010/01/28-16:11)


女性信者にわいせつ行為 韓国人牧師逮捕(産経新聞)
2010.1.28 14:40  キリスト教系教団「国際福音キリスト教会」の施設内で、女性信者にわいせつな行為をしたとして、茨城県警捜査1課とつくば中央署は28日、準強姦(ごうかん)の疑いで、同教会の代表で最高位の牧師だった韓国籍の卞(ビュン)在昌(ジェーチャン)容疑者(61)=土浦市小岩田東=を逮捕した。卞容疑者は容疑を否認している。  同課などの調べでは、卞容疑者は平成19年2月ごろ、同教会の施設内で、県南地域に住む20代の元女性信者に対して乱暴した疑いが持たれている。  卞容疑者のわいせつ事件をめぐっては昨年7月、20~30代の元女性信者ら4人が卞容疑者にわいせつ行為をされたとして、卞容疑者と同教会を相手取り、約4620万円の損害賠償請求を求める訴訟を東京地裁に起こしている。元女性信者側は「(牧師は)指導者の霊的権威は絶対不可侵であるなどと欺瞞(ぎまん)的説法を繰り返し、被害女性を抗拒不能にさせた」と主張している。  被害を受けたという女性は産経新聞の取材に対し「『君には癒やしが必要だ』といってセクハラをエスカレートさせた。衝撃的すぎて声も出なかった。嫌だと感じるのは自分の信仰が足りないせいだと思ってしまっていた」と話していた。

ついに卞在昌氏の逮捕となった。しかも強制猥褻容疑ではなく準強姦容疑である。強姦罪および準強姦罪とは
強姦罪(刑法第177条)  暴行又は脅迫を用いて13歳以上の女子を姦淫した者は、強姦の罪とし、3年以上の有期懲役に処する。13歳未満の女子を姦淫した者も、同様とする。 準強姦罪(第178条の2)  女子の心神喪失若しくは抗拒不能に乗じ、又は心神を喪失させ、若しくは抗拒不能にさせて、姦淫した者は、前条(=強姦罪)の例による。
条文にあるように強姦罪は力ずくによる姦淫であり、準強姦罪は抵抗できない状態の女性を強姦することである。準強姦罪が強姦罪より軽いという意味ではない。量刑の適用範囲等は強姦罪と同じである。強姦罪容疑による逮捕に等しい。

今後の進展に注視したい。
被害者の方々の心身の回復、そして諸教会の聖さの回復を祈るものである。
まずは論評抜きのエントリー。


※追記(1/29)
当初クリスチャントゥデイの記事も掲載しておりましたが、ニュースソースの確度を考慮して掲載を見合わせました。知りたい方は当該サイトでご確認くださいませ。代わりと言ってはなんですが、毎日新聞の記事を載せておきます。同記事には被害者団体代表らの写真も載ってあります。

信者暴行容疑:韓国籍の61歳牧師を逮捕 茨城県警
女性信者に性的暴行を加えたとして、茨城県警捜査1課などは28日、同県つくば市に本拠を置くキリスト教系宗教法人「小牧者(しょうぼくしゃ)訓練会」牧師で韓国籍の卞在昌(ビョン・ジェチャン)容疑者(61)=同県土浦市小岩田東2=を準強姦(ごうかん)容疑で逮捕した。  容疑は07年2月ごろ、つくば市内の関連施設で、県内在住の20代女性信者に暴行したとしている。県警によると、卞容疑者は容疑を否認しているという。  元信者らの被害者団体「モルデカイの会」などによると、小牧者訓練会は卞容疑者が設立し、97年に宗教法人の認可を受けた。茨城、東京、ソウルなどに八つの教会を持つという。一時は信者約500人がいたが、08年から卞容疑者にセクハラ被害を受けたとする信者の声が相次ぎ、大量に脱会したという。女性信者4人が09年7月、卞容疑者や同会に約4000万円の損害賠償を求め、東京地裁に提訴した。【原田啓之】

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ダブルバインドとパワー・ハラスメント [ハラスメント]

ダブルバインド
互いに矛盾するメッセージ(一次的メッセージと二次的メッセージ)を発することによって、相手を混乱させて身動きをとれなくさせるもの。二重拘束ともいう。
例1:
Aさんは、あるとき上司から、「こういうことは事前に相談しろ!」と怒鳴られた(一次的メッセージ)。 それで、Aさんは、次に上司に相談に行った。 ところが今度は上司から「そんな話までいちいち俺にもってくるな。そんなこともお前は自分で判断できんのか!」(二次的メッセージ) とまた怒鳴られた。
これがダブルバインドである。Aさんは上司に相談してもしなくても、どちらを選んでも、立場が悪くなる。Aさんが相当、精神的苦痛をこうむっていることは想像に難くない。こういったことが繰り返されると、パワー・ハラスメントと認定される。

この事例では一次的メッセージも二次的メッセージも、語句通り矛盾していた。これとは別に、二次的メッセージがメタメッセージや非言語的メッセージとして、言語とは異なる次元で矛盾している場合もある。

例2:
母親が子どもを幼稚園に登園するために連れてっている。 母親「わたしから離れちゃダメよ!」(一次的メッセージ)と言っておきながら、 子どもが母親の近くに来ると、すごく嫌そうな態度を示す(二次的メッセージ)。 子どもは母親の言葉に従うことができない。
これもダブルバインドである。この場合には二次的メッセージは非言語的メッセージである。こういう場合は、自分が矛盾していることに気づかないものである。

ダブルバインドは、ある種の支配従属関係の中で生じる。上司と部下、教師と生徒、親と子、主任牧師と教会スタッフなど。そしてほとんどの場合、上位者は自分がダブルバインドを発していることに気付いていない。

上位者がダブルバインドを発するのは無意識のうちにであるが、その根底には権力で下位者を従わせようとするときに起こる。支配欲の強い者、短気な者、自己正当性の強い者にダブルバインドは生じやすい。

支配従属関係において上位者が自分の都合や気分で下位者に命令を発するとき、かなりの頻度でダブルバインドが生じていることが予想される。例1も例2も、いずれも本人は無意識に発しているのである。下位者にとって上位者のどのメッセージ従えばよいのか、その判断基準は、ただ上位者の気分に左右されるので、下位者は自律的にそれを判断することができない。それでダブルバインドに陥る。

ダブルバインドに陥ったとき、下位者は次のような反応をとるようになる。
(1)上位者の顔色を伺うようになる。
(2)上位者の一挙手一投足にびくつく。
(3)上位者の言葉の裏を推測するようになる。
(4)上位者とのコミュニケーションに恐れ、逃避したくなる。
など。これらが複合的にからむ。ダブルバインドそれ自体でもかなりきつい上に、上記の反応が加わるので、精神的負担がものすごく大きい。

なお、カルト化やパワー・ハラスメントについて「コミュニケーションをもっととればいい」という人がいるが、ダブルバインドが頻繁に発生している環境下では、コミュニケーションそのものが緊張を生んでいるので、コミュニケーションを取ることは、もはや解決にならない。

もし自分の上位者がダブルバインドを頻繁に発するような人間である場合、もっともよい解決方法は、その上位者の支配から逃げることである。しかし逃げることのできない関係もある。また逃げを禁じている場合もある(第三次禁止命令)。そして逃げることに罪悪感や恐怖を感じる場合もある。カルト的な集団の場合特にこれが強い。
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パワー・ハラスメントは加害者や被害者の個人的問題か? [ハラスメント]

教会のカルト化の記事においても一部記したが、問題の原因は集団心理として働いている部分が大きく、したがってすべての問題を個人の問題に還元することができない。そのことを職場のハラスメントの参考資料を引用して紹介したい。

教会におけるパワー・ハラスメントを考える上で、職場におけるパワー・ハラスメントの事例と対応が先駆的であるがゆえに参考になる。

以下、労働ジャーナリストで職場のハラスメント研究所所長の金子雅臣氏による『知っていますか?パワー・ハラスメント一問一答』(解放出版社、2004年)より、すこし長いが引用する。

パワー・ハラスメントは加害者や被害者の個人的問題か?について
・・・いじめは決して特別な問題ではないにもかかわらず、何か自分たちとは関係のない特別な事件であることを確認しないと落ち着かないということがあるようです。・・・これでは職場で起きている本当のことが理解できません。  パワー・ハラスメントの典型であるセクハラも当初は・・・加害者の個人的な判断による行為、または上司の個人的性癖とされることで、本当の原因についての理解が遅れてきました。性差別的な意識や職務の権限を背景にして起こる問題であるにもかかわらず、そうした見方は無視され続けてきたのです。  そして、勇気を出して訴えてみても、裁判では長い間、「たまたま、そうした性癖をもった上司からの性的な誘いを受けた」とされてきたのです。実はこうした見方は、いまの日本でも容易に受け入れられ、パワー・ハラスメントを訴えようとする被害者にとって大きな障害となっています。  「やられるほうにもスキがある」「いじめを上手にかわしてこそ一人前の大人」「どこにでも嫌な人や気の合わない人はいる」などとすべて個人的な責任とされるため、多くの被害者が訴えることを断念し「泣き寝入り」してきたのです。  また一方、パワー・ハラスメントの加害者の中には、「そんなつもりはなかった。相手がそんなに傷ついているとは知らなかった」と言う人がいます。「足を踏んでいる人は、踏まれている人の痛みが分からない」といいますが、自分が気づかないうちに相手を傷つけてしまっており、相手の立場を考えることができなくなっているのです。  パワー・ハラスメントは、職場の上下関係や仕事の流れの中で職務と強く関連し、加害者自身それと気づかずに起こしていることも多いのです。  パワー・ハラスメントは、決して個人的な問題ではありません。職務上の立場と大きなかかわりをもって起きる問題であり、被害者の立場からみると、職場での立場や力を利用して人を傷つける差別的な行為であるといえます。

すべての上司がパワーハラスメントをするわけではないが、すべての上司がパワーハラスメントを犯す危険性はある。教会においても同様のことが言えるだろう。
 上記のことは「職場」を「教会」に変えるだけで、そのまま教会におけるパワー・ハラスメント被害に当てはまる。
 パワー・ハラスメントは加害者や被害者の個人的問題とはできないのである。
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パワー・ハラスメントとは [ハラスメント]

教会のカルト化の被害のひとつにパワー・ハラスメントがある。パワハラと略されることも多い。

「パワー・ハラスメント」という言葉は元来は「職場の力関係を利用したハラスメント(いじめ、嫌がらせ)」を指していた。やがて職場に限らず宗教団体・組織でも同様のことが見られるのではないか、ということで広く使われるようになっている。教会のカルト化においてもパワー・ハラスメントの被害は見られる。


パワー・ハラスメントの定義についてはいくつか試みられている。

まずは(株)クオレ・シー・キューブ代表の岡田康子氏の定義。
岡田氏は日本において先駆的にこの問題を取り扱ってきた。この問題をパワー・ハラスメントと命名したのも岡田氏である。
岡田氏によるパワー・ハラスメントの定義は、
職権などのパワーを背景にして、本来業務の適正な範囲を超えて、継続的に、人格や尊厳を侵害する言動を行い、就労者の働く環境を悪化させる、あるいは雇用不安を与えること。
とされる。

また「職場のハラスメント研究所」所長の金子雅臣氏による定義は
職場において、地位や人間関係で弱い立場の相手に対して、繰り返し精神的又は肉体的苦痛を与えることにより、結果として働く人たちの権利を侵害し、職場環境を悪化させる行為。


定義の意図するところや概念はほぼ同じである。

・力関係の利用
・適正な範囲の超過
・継続性
・人権侵害
・精神的苦痛または肉体的苦痛
・職場環境の悪化
これらが上げられる。

上記のポイントを真似て、教会のカルト化におけるパワーハラスメントを定義してみると、
「教会において、力関係を背景として、教会の本来的なあり方を超えて、精神的又は肉体的苦痛を与え、結果的に人格や尊厳を侵害する行為、また教会内の環境を悪化させる行為。」となろうか。


さて力関係の利用という点で言えば、上位者から下位者への流れがパワーハラスメント要素の一つである。
これが逆の場合にはパワー・ハラスメントとは言わないだろう。

たとえば、下図をごらんいただきたい。
ph1.JPG上司から部下へ

ph2.JPG部下から上司へ

両者は似ているけれども同じではない。
力関係のゆえに、部下は上司の依頼を受け付けないという選択は不可能である。しかし上司は部下の依頼を受け付けないという選択も可能である。この場合、部下から上司への仕事の依頼をパワーハラスメントとは言わないだろう(ただし部下が実は社長の息子であったとか、ある種の力関係があるなら話は別である)。

むろん、上司からの依頼がすべてパワー・ハラスメントというわけではない(そこは誤解のないように願いたい)。
パワー・ハラスメントの判断には仕事の適正さ、継続性、人間関係、職場環境、労基遵守度合いなども勘案されなければならない。

ある種の力関係において、下位者は不適正な事柄であってもそれに抗うことが出来ないということが、パワーハラスメント要素の一つである。
(続く)
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カルト化雑考 同調圧力3 同調圧力下における下位者の従属行動 [カルト化・マインドコントロール]

前回の同調圧力の記事からだいぶ日が経ってしまった。まず、これまでの要点を書き記す。

・カルト化とは集団心理が引き起こす問題である。
・カルト化被害には、表面化しやすい被害(性的逸脱、暴力、金銭問題、反社会的行為、近隣トラブル、家庭崩壊)と、表面化しにくい被害(精神的苦痛、心的外傷、ストレス性障害、社会不安障害、人間不信、人格崩壊、信仰の破壊、精神の退行)がある。
・カルト化が生じる要因には、同調圧力、役割規範の強化、そして自集団に対する過大評価、の3つがある。

続いて同調圧力について
・同調圧力とは場を支配する「空気」である。
・同調圧力は支配従属関係を強化する。
・同調圧力には積極的な同調(集団の一致や同調を善とする価値観から生まれる同調)と、消極的な同調(集団の不一致や対立などで疲弊してうんざりしている)の両方がある。
・同調圧力が発生するときには、支配者、従属者、そして傍観者、この3つの存在がある。
・傍観者効果は同調圧力を強化する。


さて次に、同調圧力における支配従属関係について述べたい。
同調圧力は支配従属関係を強化する。下位者の従属行動は同調圧力のもとでさらに強化される。

同調圧力においてとる内的態度は、上位者も傍観者も下位者も基本的には同じである。
ただ下位者に特有なのは、集団から被害をこうむる恐れが非常に強いという点である。恐れだけではなく既に何らかの被害を受けているだろう。一方、上位者も傍観者も被害をこうむる恐れは低い。

より問題を深刻化させるのは、下位者が同調圧力の中では、被害をカミングアウトできず、ますます支配従属関係の中に身を委ねてしまうことである。いわゆる「イジメ」の構造である。
ケンカとイジメは異なる。ケンカでは相手に抗う気持ちも出ようが、イジメでは相手に抗う気持ちさえ出ない。ケンカの相手は1~2人であるが、イジメの相手は集団である。ここで傍観者の存在が非常に重くのしかかる。仮に40人の集団において、上位者が1人、下位者が1人、そして傍観者が38人いるとする。上位者1人が下位者1人をいじめているとしても、それは決して1対1のケンカではない。下位者からすれば1対39のイジメに映るのである。これではどんなに腕力や発言力があろうとも、到底かなわないのである。

しばしば「いじめられて抗わない人も悪い」という言い方をする人がいるが、こんな事を言う人は下位者の心理を想像できないのであろう。

ところで何人の相手がいれば下位者は抵抗をやめて唯々諾々と従属するのだろうか。社会心理学者アッシュの実験によれば3人が閾値である。それ以上になっても集団圧力からうける影響はさほど変化がないという(社会的な集団状況における『同調圧力(集団圧力)・役割行動規範』と『個人の判断基準』との葛藤。リファレンス元は調査中)。なおアッシュの実験によればペナルティー(不利益)がなくても同調圧力が軽くなるわけではない。したがって、たとえば単なる意見の相違であっても、3人に囲まれれば同調しやすくなるのである。

しばしばドラマなどでは、1人対3人としてイジメを描写しているが、あれは人間心理をよく表しているのだろう。


まとめ
・同調圧力のもとでは下位者の従属行動はさらに強化される。
・下位者には相手集団に対して恐れが発生する。
・同調圧力が発生するのは1人対3人から。


次は、同調圧力における上位者の支配行動について述べる予定。
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youtube マインドコントロールの落とし穴 [映画・動画]

youtubeにマインドコントロール関連の動画が7つアップされていた。
マインドコントロール 落とし穴」で検索すると出てくる。興味深いものである。
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カルト化雑考 同調圧力2 傍観者が同調圧力を強める [カルト化・マインドコントロール]

傍観者(ぼうかんしゃ)

 集団には少なからず傍観者がいる。傍観者は何もしない。手も口も出さず、ただ見ているだけである。あるいは見て見ぬ振りをしているだけである。どちらかに加担するわけでもなく、どちらかを非難するわけでもない。内心ではどう思っているかは別としても、外面では中立的であるように思われる。一見、傍観者の存在は当事者間になんの影響も与えないように思われる。しかし実際はそうではない。支配従属関係にある当事者に対して、傍観者の存在はその支配従属関係を強化する方向に働く。傍観者は黙認しているわけではないとしても黙認しているように映ってしまう。


傍観者の存在が支配従属関係を強化する

『ヒトはなぜヒトをいじめるのか』(正高信男)によれば、傍観者の存在がいじめを生むという。
「相手を攻撃することが、自分の思い通りにさせるためではなくなって、第三者に自分はこんなに強いんだとか、自分が攻撃したのはこういう理由があるから当然なのだと正当性をアピールする状況になったときから、次のステージに入る。これが、第二段階となるヒト固有の「いじめ」である。・・・いじめが定着してパターン化するのは、その現場を見せ付けたい傍観者がいるからなのだ。傍観者は加担もしないが、仲裁に入るわけでもなく、状況を黙認している。むしろ面白がるケースもありうる。・・・問題を解決するキーワードは傍観者だといえる。」(正高信男『ヒトはなぜヒトをいじめるのか』52~53ページ)。
 ここにあるとおり、傍観者の存在は、支配者の行為を正当化させる効果があり、一方従属者に対しては味方がいないという諦めを生じさせる効果がある。それは傍観者が意図していることではない。傍観者はただ関わりを避けているだけである。しかしその傍観者の存在が、このような支配従属関係を強化してしまうのである。そして傍観者が多ければ多いほど、この支配従属効果はますます強化されていく。

 同調圧力が働く場では傍観者の存在が必須である。傍観者の存在が多ければ多いほど同調圧力は強まる。カルト化集団においても同様である。傍観者は何もしない。しかしまさに何もしない傍観者の存在が、集団内における支配従属関係を強化するのである。

 このように傍観者にも責任の一端がある。もちろん傍観者はいじめやカルト化の主因ではない。主因は支配従属構造の支配する側にある。だから傍観者の責任を述べたからと言って、支配者を免責するものではない。このことは念を押して述べる。ただ、『ヒトはなぜヒトをいじめるのか』にもあるように、集団心理で生じている事柄に対して、当事者だけに焦点を当てても問題の真相は見えてこない。傍観者の存在が同調圧力を強化するならば、そこにもメスを入れなければならないのである。



傍観者を作る心理

 では、なぜ傍観者は生まれるのだろうか。傍観者の心理を知る上でよく取り上げられる有名な事件がある。キティ・ジェノヴィーズ Kitty Genovese 事件である。(「集団の無責任:「傍観者効果」研究を生んだ殺人事件」にも詳しい)これは1964年にアメリカの大都市ニューヨークの深夜、自宅前でキティ・ジェノヴィーズという若い女性が暴漢に襲われて殺された事件である。2週間後にタイムズ紙は、「彼女の叫び声で付近の住民38人が事件に気づき目撃していたにもかかわらず、誰一人助けに入らず警察にも通報しなかった」と報道した。マスコミやコメンテーターは、これを「都会人の冷淡さ」として解説した。「そこにいた人たちが冷淡な人だったから傍観者になった」と考えた。しかし社会心理学者のラタネ Latane とダーリー Darley は「多くの人がいたにもかかわらず、誰も助けなかった」のではなく、「多くの人がいたから、誰も助けなかったのではないか」と考え、実験によってこの仮説を証明した。路上で心臓発作を起こしている人を、もし目撃者が1人だと助けられる率は80%、しかし目撃者が複数いるとその率は30%にまで落ちた。これを「傍観者効果」と言う。「傍観者効果」とは、ある事件を目撃しても、自分以外の傍観者がいる時に救助を回避する心理である。傍観者が多いほど、傍観者効果は高くなる。
 人は困っている人を目撃すると、助けたいという思いと、面倒なことに巻き込まれたくないという思いが錯綜する。特に大きな事件ほどその葛藤は大きい。自分しかいなければ助けざるを得ない。しかし他者がいれば、自分は助けなくてすむ。このようなことは誰もが考えることである。保身と言えば保身だが、人間の心理である。傍観者効果を生む心理は以下の3つと考えられる。

・多元的無知・・・他者が積極的に行動しないことによって、事態は緊急性を要しないと考えること。
・責任分散・・・他者と同調することで責任や非難が分散されると考えること。
・評価懸念・・・行動を起こした時、その結果に対して周囲からのネガティブな評価を恐れること。

傍観者効果は多くのところで見られる。1991年の東京都内のタクシー乗り場で、騒いでいた少年を注意した男性が殴り殺された。このときも多くの傍観者がいたが誰も助けも警察も呼ばなかった。

傍観者効果と似たものに、
・多数派同調バイアス・・・自分以外に大勢の人がいると、取りあえず周りに合わせようとする心理バイアス(偏り)。
・正常性バイアス・・・異常事態に遭遇したとき「こんなはずはない」これは正常なんだと自分を抑制しようとする心理バイアス(偏り)。

2003年の韓国地下鉄火災事件で200名が死んだが、煙が充満する車内の座席で乗客が平然と座っている写真があり、多数派同調バイアスと正常性バイアスの実例としてあげられる。(詳しくは、ここここを参照)

 傍観者の個々のモラルを責めるだけでは、このような事件は防ぐことができない。集団心理として生じてしまうことであるだけに、システムとしてこれを回避する工夫が必要なのである。


 以上、同調圧力を強化する存在としての傍観者と、その傍観者を生み出す心理について述べてきた。傍観者効果は人間ならば誰にもある心理(おそらく保身)であり、誰でも1度や2度は傍観者になった経験があるであろう。傍観者の存在は集団のカルト化を強化する上で大きな要因である。まさか傍観者がそのような影響を与えているとは思えないからこそ、余計にこの存在が与える意味は大きい。

 カルト化集団にいても、必ずしも常にマインドコントロールされているわけではないし、むしろ普段はいたって普通であることさえある。しかし集団の中でたまに何かおかしな事柄や避けたい事柄(おかしな説教、おかしな運動、いびつな人間関係、陰口、うわさ、個人攻撃、つるし上げ、制裁、いじめなど)があっても、1対1であれば、「それはおかしい」とか「ノー」と言えるのだが、複数の人がいるところでは、なかなか率先して言えないものである。特に傍観者が多いところでは言えずに傍観者になる。傍観者が次の傍観者を生み、傍観者の大量発生となる。事柄の葛藤が大きいほど、また集団が大きいほどそうなる。この心理は既に上で述べたことである。

 今回は同調圧力の中で盲点となりやすい傍観者に焦点を当ててみたが、次はいよいよ同調圧力における支配従属関係について述べてみたい。

続く
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同調圧力 1 [カルト化・マインドコントロール]

そろそろ本題に。

教会のカルト化は集団心理によると述べたが、それはおそらく次の3点に集約されるのだろうと、とりあえず今はそう考えている。

1.同調圧力
2.役割規範の強化
3.自集団に対する過大評価

まず同調圧力について。

同調圧力とは
自らの所属する集団から被る、その所属集団の多数が支持する意見や行動に対し、同調を迫る明示的、もしくは非明示的な圧力。
はてなキーワードより)
同調圧力はカルト集団だけに起こることではなく、およそどんな集団においても大なり小なり発生するものである。

よくあるのは会議である。会議というものは、特に時間が間際になればなるほど、同調圧力が掛かる。教会会議というのものにも同調圧力はある。だから「独裁的な教会運営がカルト化を生み、会議的なものにすればカルト化を防げる」というのは誤解であろう。

アビリーンのパラドックスというものがある。
アビリーンのパラドックスとは、集団が構成員の実際の嗜好とは異なる行動をおこすという状況をあらわすパラドックスである。実際には構成員が望まないことであるにもかかわらず、構成員が反対しないがために、集団が誤った結論を導くという現象である。  ある八月の暑い日、アメリカ合衆国テキサス州で、ある家族が団欒していた。そのうち一人が53マイル離れたアビリーンへの旅行を提案した。誰もがその旅行を望んでいなかったにもかかわらず、皆他の家族は旅行をしたがっていると思い込み、誰もその提案に反対しなかった。道中は暑く、埃っぽく、とても快適なものではなかった。提案者を含めて誰もアビリーンへ行きたくなかったという事を皆が知ったのは、旅行が終わった後だった。  このパラドックスは集団思考の一例として、しばしば用いられる。
wikipediaより)

全会一致の幻想というものもある。
集団思考において、グループの結束を乱したくないという感情からくる自己検閲および「異論が無い事とは賛成を意味する」という間違った認識により全会一致の状況が作られていくこと。


自己検閲。自分に異論があっても、集団の中で他に異論がないように感じたときに、自ら異論を表明することを控えることである。

同調圧力は、多数派同調バイアスとか、斉一性(せいいつせい)の原理などとも言う。集団が異論の存在を許さず特定の方向に進んでいく事を指す。多数決で意思決定を行う場では起こらず、全会一致で意思決定を行う場で起きる。

かつて山本七平が「空気の研究」によって批判した日本の「空気」という化け物。今まさに「KY(空気読めない)」「空気読め!」という言葉となっているが、これもまた同調圧力である。

このような同調圧力は大なり小なり普通の集団においても起こっている。カルト化集団の場合も普通の同調圧力となんら変わることは無い。ただカルト化の場合、同調圧力は常に「リーダーの意向」や「組織の意向」に沿う方向に働く。なぜそうなるかについては、後日、「役割規範の強化」と「自集団に対する過大評価」のところで述べるつもりである。


同調圧力のメカニズムについて

同調圧力とは社会心理的なシステムの問題である。あくまでも組織、集団の問題である。同調圧力が起こるには、「同調圧力を発する人」と「同調圧力を感じる人」の両方が必要である。そして同調圧力を感じる人々は、やがて同調圧力を発する人になる。

同調圧力に関しては、以下の記事が有益なのでお勧めする。「社会的な集団状況における『同調圧力(集団圧力)・役割行動規範』と『個人の判断基準』との葛藤

まず同調圧力を感じる人々について。
そこにあるとおり、大勢に逆らってまで自分の意見を述べるには、不利益をこうむるかもしれないという恐れを克服せねばできず、相当勇気のいることである。そしてカルト化集団では非難・制裁・いじめにあうかもしれないというのは実に迫った恐れである。だからなおさら自己検閲し同調圧力が高くなるのである。(ところで、だったらなぜ抜け出さないのか、という疑問があると思うが、それは「自集団に対する過大評価」というところで述べたい)

もうひとつ同調圧力が起こる要因として、集団への協調性である。しばしば「自分を否定して」まで全体に強調することに、一種の自己肯定感が生まれる。自己犠牲の精神であったり、自分は組織を愛しているとまで思ってしまう。これがカルト化では著しい。

次いで同調圧力を発する人々について。
 集団の同調圧力に逆らって個人の意見を殊更に主張すれば、『あいつさえわがままを言わずに黙っておけば万事順調に進むのに(今まで通りの慣例や常識に従っておけば余計な波風が立たないのに)』という形の非難や反発を発する。発し方は必ずしも明確な発言としてではなく、ひそひそ声、視線、態度、そして陰口という形で発生する。


同調圧力には積極的な同調と消極的な同調がある。

積極的な同調とは、集団の一致や同調を善とする価値観から生まれる。議論を嫌い、みんな一緒に、波風立たず、万事円満であることを善とする価値観である。こういう価値観が強いところでは同調圧力が強まっていく。良かれと思って同調圧力を生むのである。これが同調圧力の正の力となる。

消極的な同調とは、集団の不一致や対立などによる疲弊を経験した人々によって生じるものである。うんざりしている。あるいは常に時間に追われていたり、多忙感があり、リーダーや組織の意向に疲れているとき。こういった時に負の力として同調圧力が働く。カルト集団では実際かなりの人が集団に疲れていることもあり、このような負の同調圧力が下支えしている。


こうして集団内の各人が、互いにけん制し、勝手に察し、妙な「空気」が発生する。これがカルト化教会にある、あの何とも言えないけれども漂う「空気」である。

カルト化集団においては、さらに誰も頼んでいないのに、リーダーや組織が好むであろうと発言までしてしまうのである。頼んでもいないのに勝手に取り巻きや犬が生まれてくる。そしてバスに乗り遅れるなとばかりに次々と犬が生まれてきたら、その集団はかなり深刻である。

ところで、その集団の同調圧力はその集団内に属しているときに起こるものである。たとえばAさんという人がいたとする。AさんはXというカルト化している集団に属している。この集団Xは同調圧力が非常に高い。Aさんも集団Xにおいては同調圧力を発したり、同調圧力を感じたり、自己検閲をしたり、自薦の用心棒となったりする。しかしAさんは別の集団Y(たとえば職場)にも属しているし、集団Z(たとえば自治会)にも属している。集団Yも集団Zも同調圧力がほとんど無いとする。Aさんは集団Yや集団Zにおいては同調圧力を発したり感じたり自己検閲することは無い。たとえばこういうことである。

続く
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雑考3 カルト化による被害 [カルト化・マインドコントロール]

教会のカルト化は集団心理であると前回書いた。そのメカニズムや対処について考えるのは後回しにして、カルト化においてどういった被害が発生しているのかをメモしておく。

世間において、カルト化が周囲に露見されるのは、性的逸脱(セクハラ)、暴力、金銭問題によってである。しかしこういった不祥事はカルト化被害の一部あって、というか、こういった問題が露見した頃には相当事態が深刻化していたのであって、たとえこのような問題が露見しなくても、あるいはこういった問題がなくても、教会のカルト化による被害者はいるのである。

カルト化の被害
・非難、制裁、いじめによる肉体的精神的苦痛
・特に排斥の恐怖による心的外傷
・個人と組織の葛藤によるストレス性障害
・社会不安障害
・人間不信
・信仰の破壊
・精神の退行
・家庭の崩壊
・近隣トラブル
・性的逸脱、暴力、金銭問題

性、暴力、金は犯罪行為であるので問題の客観性がある。しかしそれ以外は主に本人の内側の被害であって、それゆえ問題が潜在化する。被害者も、リーダーや組織を責めるよりも、自分を責めるだけである。リーダーや組織を疑ったり非難すると罪意識を感じてしまい、二重に苦しむ。なお性的逸脱、暴力、金銭問題にも精神的な被害、信仰の破壊、家族の崩壊が伴うことは言うまでもない。

カルト化の被害は、個人攻撃という形で現れる。カルト化している集団においては、教会のあり方に対して批判しただけで、「リーダーの指導に不従順な人」「教会の一致を乱す人」「サタンの手先」といった非難がなされ、制裁を受ける。時には内部一致を高めるためだけのスケープゴートとしてのいじめもありうる。もちろん、カルト化教会が普段からこうなのではない。普段は普通そうに見える。そしてこういったことは教会の中で普段は目立たない。そしてすべての者が深刻な被害をこうむるというわけではない。


これを読んでいて、普通の教会にさえ人が行かなくなったら、それは私にとっても不本意である。なので、念のため次のことを記しておく。

教会のカルト化被害というものは、普通の教会にとってはあまり関係の無い問題だろうと思う。「どの教会にも問題がある」という言い方があるが、そういう問題と教会のカルト化はやはり区別されるべき事柄である。

普通の教会であれば、仮にカルト化の小さな芽が生えたとしても、それは正されていくものである。しかし中には正されず、温存され、強化されていく教会(集団)がある。それはどのようにしてなのか。それは今後の記事に譲るとして、とりあえず今言えることは、「自分にもカルト化の危険性があるかもしれない」そう思っているところではカルト化は起こりにくいだろうと思う。自動車事故と似ていて、油断・過信・思い込みが事故を招く。
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雑考2 [カルト化・マインドコントロール]

集団心理


教会のカルト化は文字通り「教会」のカルト化である。牧師だけではカルト化は引き起こせない。また牧師がいなくてもカルト化は起こりさえする。牧師論だけではカルト化は防げない。もちろんこのことは牧師を免責するものでも、全体責任でうやむやにするものでもない。教会のカルト化において牧師の占める役割は非常に大きい。だがらといって牧師個人の問題に還元できるものでもない。牧師の不祥事とカルト化は同じではない。

教会のカルト化とは集団心理である。牧師と教会は互いに影響し合い、カルト化を促進する。仮に、カルト化の要素の多い牧師がいたとしても、教会がその牧師に対して完全にそっぽを向いているなら、教会のカルト化は起こらない。カルト化とは集団、社会、組織、システムの問題である。

たとえばカルト化においては「自薦の用心棒 self-appointed mindguards」が出現する。
自薦の用心棒(じせんのようじんぼう マインドガード)とは、社会心理学の用語で、集団心理や社会的影響の結果得られた規範を、擁護しようとする者を指す。異論や反対、水を差す行為を封殺するのである。
(wikipediaより)
教会のカルト化において「自薦の用心棒」の役割を果たすのは牧師でも取り巻きでもなく、集団内の第三者である。こういった集団の個々の役割の結果として集団思考が強化され、カルト化が起こっていく。たとえばこういうことである。


※まるで前回のコメントに対する応答のようになってしまいましたが、これはその前に書きかけていた文章を出しただけでして、コメントに対してあてつけがましく書いたわけではありません・・・念のため。まさかいきなりコメントがくるとは思ってもいなかったもので。
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