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教会のカルト化 雑考 [カルト化・マインドコントロール]

教会のカルト化が言われて久しい。それに関する書物も出た。事件も何度も起こった。だが思ったほど教会や信仰のあり方について変化があったようにも思えない。

カルトやマインドコントロールを考える上で、多くの誤解があるのだが、その最たるものは、「聖書を正しく読めば問題は防げる(あるいは問題に気付くことができる)」という誤解である。

これが何の解決にもならないことを知らないがために、取るべき対策が取られず、いっそう拍車がかかることさえ起こる。「聖書を正しく読めば問題は防げる」というのは、幻想といってよい。これはカルト化に限ったことではなくおよそキリスト教史上のほぼすべての問題に共通すると言っても過言ではあるまい。
人は「自分の考えが正しい」と思っている。そう思うからこそ何事かでありうるし、何事かをなそうとするのである。これは聖書の読みについても同じである。常に自分の読みを否定しながら読むということは、まずありえない。

聖書を読むことによっても自分の既成概念が崩されること無く、むしろ強化されていく。こういうことはカルト化に限ったことではなく、よくあることである。しかしそれはカルト化においては一層その傾向は強い。
聖書を読めば読むほどカルト化は強まれこそすれ、弱まることは無い。バイブルスタディー、説教、デボーション、分かち合い、そういったまさに信仰のパイエティーを醸成する場においてこそ、マインドコントロールは強化されてしまうものである。

こう反論する人々もいるだろう。カルト化する人々の読みは断片的で自分に都合のよい解釈を施していると。確かにそうなのであるが、そのことは自分で気が付きにくい。加えて、カルト化の場合、カルト化されていく人々は、むしろ自分の読みを否定し、指導者のメッセージを受容していくものである。そうであるからこそ、「指導者の聖書の読み方が正しい」「組織の聖書の読み方が正しい」ということになる。そして自分は指導者や組織の読み方に合わようとする。いよいよマインドコントロールが強化される。

カルト化する背景の一つに指導者の焦りがある。信徒が自分の思い通りに動かないことの焦りである。そもそも自分の思い通りに動かそうという動機そのものからしてすでにアウトなのわけだが、人は自分の考えは正しいと信じて疑わないわけであって、そういう自分の考えを虚心坦懐に検証できない指導者というのはいる。この人は多角的に物事を見ることができないなと感じさせる人としばしば出会う。もちろん人は誰にでも欠点はある。だからせめて自分は多角的に物事が見れないと謙虚になることが大事だ。それとむしろ怖いのは自分は多角的に物事を見ていると過信している人である。こういう人はブレーキがかからない。
 カルト化について考えるとき、群れの指導者が、ある行動なり、ある運動なり、ある働きを群れ全体に強いるとき、急いでいるとき、そして指導者が焦りと苛立ちを覚えているとき、そういうときに、起こりやすいということである。

カルト化とは一種の全体主義である。メカニズムは主観的確証バイアスの強化である。方法論は権威と恐怖による支配である。いわゆるパワーハラスメント(パワハラ)である。

処方箋は、たぶんこれと言った有効なものはない。
少なくとも根本治療は無い。
神がいつかどうにかしてくれるだろう、というのは、残念ながら、どうにもならない。
よりによって教会で起こっているのだから、話にならないのである。

無いけれども、対処療法としては、
その群れを去る、
というのが、(可能ならば、であるが)、それが実際的で、おそらく唯一の、処方箋であろう。
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