同調圧力 1 [カルト化・マインドコントロール]
そろそろ本題に。
教会のカルト化は集団心理によると述べたが、それはおそらく次の3点に集約されるのだろうと、とりあえず今はそう考えている。
1.同調圧力
2.役割規範の強化
3.自集団に対する過大評価
まず同調圧力について。
同調圧力とは
同調圧力はカルト集団だけに起こることではなく、およそどんな集団においても大なり小なり発生するものである。
よくあるのは会議である。会議というものは、特に時間が間際になればなるほど、同調圧力が掛かる。教会会議というのものにも同調圧力はある。だから「独裁的な教会運営がカルト化を生み、会議的なものにすればカルト化を防げる」というのは誤解であろう。
アビリーンのパラドックスというものがある。
全会一致の幻想というものもある。
自己検閲。自分に異論があっても、集団の中で他に異論がないように感じたときに、自ら異論を表明することを控えることである。
同調圧力は、多数派同調バイアスとか、斉一性(せいいつせい)の原理などとも言う。集団が異論の存在を許さず特定の方向に進んでいく事を指す。多数決で意思決定を行う場では起こらず、全会一致で意思決定を行う場で起きる。
かつて山本七平が「空気の研究」によって批判した日本の「空気」という化け物。今まさに「KY(空気読めない)」「空気読め!」という言葉となっているが、これもまた同調圧力である。
このような同調圧力は大なり小なり普通の集団においても起こっている。カルト化集団の場合も普通の同調圧力となんら変わることは無い。ただカルト化の場合、同調圧力は常に「リーダーの意向」や「組織の意向」に沿う方向に働く。なぜそうなるかについては、後日、「役割規範の強化」と「自集団に対する過大評価」のところで述べるつもりである。
同調圧力のメカニズムについて
同調圧力とは社会心理的なシステムの問題である。あくまでも組織、集団の問題である。同調圧力が起こるには、「同調圧力を発する人」と「同調圧力を感じる人」の両方が必要である。そして同調圧力を感じる人々は、やがて同調圧力を発する人になる。
同調圧力に関しては、以下の記事が有益なのでお勧めする。「社会的な集団状況における『同調圧力(集団圧力)・役割行動規範』と『個人の判断基準』との葛藤」
まず同調圧力を感じる人々について。
そこにあるとおり、大勢に逆らってまで自分の意見を述べるには、不利益をこうむるかもしれないという恐れを克服せねばできず、相当勇気のいることである。そしてカルト化集団では非難・制裁・いじめにあうかもしれないというのは実に迫った恐れである。だからなおさら自己検閲し同調圧力が高くなるのである。(ところで、だったらなぜ抜け出さないのか、という疑問があると思うが、それは「自集団に対する過大評価」というところで述べたい)
もうひとつ同調圧力が起こる要因として、集団への協調性である。しばしば「自分を否定して」まで全体に強調することに、一種の自己肯定感が生まれる。自己犠牲の精神であったり、自分は組織を愛しているとまで思ってしまう。これがカルト化では著しい。
次いで同調圧力を発する人々について。
集団の同調圧力に逆らって個人の意見を殊更に主張すれば、『あいつさえわがままを言わずに黙っておけば万事順調に進むのに(今まで通りの慣例や常識に従っておけば余計な波風が立たないのに)』という形の非難や反発を発する。発し方は必ずしも明確な発言としてではなく、ひそひそ声、視線、態度、そして陰口や噂という形で発生する。
同調圧力には積極的な同調と消極的な同調がある。
積極的な同調とは、集団の一致や同調を善とする価値観から生まれる。議論を嫌い、みんな一緒に、波風立たず、万事円満であることを善とする価値観である。こういう価値観が強いところでは同調圧力が強まっていく。良かれと思って同調圧力を生むのである。これが同調圧力の正の力となる。
消極的な同調とは、集団の不一致や対立などによる疲弊を経験した人々によって生じるものである。うんざりしている。あるいは常に時間に追われていたり、多忙感があり、リーダーや組織の意向に疲れているとき。こういった時に負の力として同調圧力が働く。カルト集団では実際かなりの人が集団に疲れていることもあり、このような負の同調圧力が下支えしている。
こうして集団内の各人が、互いにけん制し、勝手に察し、妙な「空気」が発生する。これがカルト化教会にある、あの何とも言えないけれども漂う「空気」である。
カルト化集団においては、さらに誰も頼んでいないのに、リーダーや組織が好むであろうと発言までしてしまうのである。頼んでもいないのに勝手に取り巻きや犬が生まれてくる。そしてバスに乗り遅れるなとばかりに次々と犬が生まれてきたら、その集団はかなり深刻である。
ところで、その集団の同調圧力はその集団内に属しているときに起こるものである。たとえばAさんという人がいたとする。AさんはXというカルト化している集団に属している。この集団Xは同調圧力が非常に高い。Aさんも集団Xにおいては同調圧力を発したり、同調圧力を感じたり、自己検閲をしたり、自薦の用心棒となったりする。しかしAさんは別の集団Y(たとえば職場)にも属しているし、集団Z(たとえば自治会)にも属している。集団Yも集団Zも同調圧力がほとんど無いとする。Aさんは集団Yや集団Zにおいては同調圧力を発したり感じたり自己検閲することは無い。たとえばこういうことである。
続く
教会のカルト化は集団心理によると述べたが、それはおそらく次の3点に集約されるのだろうと、とりあえず今はそう考えている。
1.同調圧力
2.役割規範の強化
3.自集団に対する過大評価
まず同調圧力について。
同調圧力とは
自らの所属する集団から被る、その所属集団の多数が支持する意見や行動に対し、同調を迫る明示的、もしくは非明示的な圧力。(はてなキーワードより)
同調圧力はカルト集団だけに起こることではなく、およそどんな集団においても大なり小なり発生するものである。
よくあるのは会議である。会議というものは、特に時間が間際になればなるほど、同調圧力が掛かる。教会会議というのものにも同調圧力はある。だから「独裁的な教会運営がカルト化を生み、会議的なものにすればカルト化を防げる」というのは誤解であろう。
アビリーンのパラドックスというものがある。
アビリーンのパラドックスとは、集団が構成員の実際の嗜好とは異なる行動をおこすという状況をあらわすパラドックスである。実際には構成員が望まないことであるにもかかわらず、構成員が反対しないがために、集団が誤った結論を導くという現象である。 ある八月の暑い日、アメリカ合衆国テキサス州で、ある家族が団欒していた。そのうち一人が53マイル離れたアビリーンへの旅行を提案した。誰もがその旅行を望んでいなかったにもかかわらず、皆他の家族は旅行をしたがっていると思い込み、誰もその提案に反対しなかった。道中は暑く、埃っぽく、とても快適なものではなかった。提案者を含めて誰もアビリーンへ行きたくなかったという事を皆が知ったのは、旅行が終わった後だった。 このパラドックスは集団思考の一例として、しばしば用いられる。(wikipediaより)
全会一致の幻想というものもある。
集団思考において、グループの結束を乱したくないという感情からくる自己検閲および「異論が無い事とは賛成を意味する」という間違った認識により全会一致の状況が作られていくこと。
自己検閲。自分に異論があっても、集団の中で他に異論がないように感じたときに、自ら異論を表明することを控えることである。
同調圧力は、多数派同調バイアスとか、斉一性(せいいつせい)の原理などとも言う。集団が異論の存在を許さず特定の方向に進んでいく事を指す。多数決で意思決定を行う場では起こらず、全会一致で意思決定を行う場で起きる。
かつて山本七平が「空気の研究」によって批判した日本の「空気」という化け物。今まさに「KY(空気読めない)」「空気読め!」という言葉となっているが、これもまた同調圧力である。
このような同調圧力は大なり小なり普通の集団においても起こっている。カルト化集団の場合も普通の同調圧力となんら変わることは無い。ただカルト化の場合、同調圧力は常に「リーダーの意向」や「組織の意向」に沿う方向に働く。なぜそうなるかについては、後日、「役割規範の強化」と「自集団に対する過大評価」のところで述べるつもりである。
同調圧力のメカニズムについて
同調圧力とは社会心理的なシステムの問題である。あくまでも組織、集団の問題である。同調圧力が起こるには、「同調圧力を発する人」と「同調圧力を感じる人」の両方が必要である。そして同調圧力を感じる人々は、やがて同調圧力を発する人になる。
同調圧力に関しては、以下の記事が有益なのでお勧めする。「社会的な集団状況における『同調圧力(集団圧力)・役割行動規範』と『個人の判断基準』との葛藤」
まず同調圧力を感じる人々について。
そこにあるとおり、大勢に逆らってまで自分の意見を述べるには、不利益をこうむるかもしれないという恐れを克服せねばできず、相当勇気のいることである。そしてカルト化集団では非難・制裁・いじめにあうかもしれないというのは実に迫った恐れである。だからなおさら自己検閲し同調圧力が高くなるのである。(ところで、だったらなぜ抜け出さないのか、という疑問があると思うが、それは「自集団に対する過大評価」というところで述べたい)
もうひとつ同調圧力が起こる要因として、集団への協調性である。しばしば「自分を否定して」まで全体に強調することに、一種の自己肯定感が生まれる。自己犠牲の精神であったり、自分は組織を愛しているとまで思ってしまう。これがカルト化では著しい。
次いで同調圧力を発する人々について。
集団の同調圧力に逆らって個人の意見を殊更に主張すれば、『あいつさえわがままを言わずに黙っておけば万事順調に進むのに(今まで通りの慣例や常識に従っておけば余計な波風が立たないのに)』という形の非難や反発を発する。発し方は必ずしも明確な発言としてではなく、ひそひそ声、視線、態度、そして陰口や噂という形で発生する。
同調圧力には積極的な同調と消極的な同調がある。
積極的な同調とは、集団の一致や同調を善とする価値観から生まれる。議論を嫌い、みんな一緒に、波風立たず、万事円満であることを善とする価値観である。こういう価値観が強いところでは同調圧力が強まっていく。良かれと思って同調圧力を生むのである。これが同調圧力の正の力となる。
消極的な同調とは、集団の不一致や対立などによる疲弊を経験した人々によって生じるものである。うんざりしている。あるいは常に時間に追われていたり、多忙感があり、リーダーや組織の意向に疲れているとき。こういった時に負の力として同調圧力が働く。カルト集団では実際かなりの人が集団に疲れていることもあり、このような負の同調圧力が下支えしている。
こうして集団内の各人が、互いにけん制し、勝手に察し、妙な「空気」が発生する。これがカルト化教会にある、あの何とも言えないけれども漂う「空気」である。
カルト化集団においては、さらに誰も頼んでいないのに、リーダーや組織が好むであろうと発言までしてしまうのである。頼んでもいないのに勝手に取り巻きや犬が生まれてくる。そしてバスに乗り遅れるなとばかりに次々と犬が生まれてきたら、その集団はかなり深刻である。
ところで、その集団の同調圧力はその集団内に属しているときに起こるものである。たとえばAさんという人がいたとする。AさんはXというカルト化している集団に属している。この集団Xは同調圧力が非常に高い。Aさんも集団Xにおいては同調圧力を発したり、同調圧力を感じたり、自己検閲をしたり、自薦の用心棒となったりする。しかしAさんは別の集団Y(たとえば職場)にも属しているし、集団Z(たとえば自治会)にも属している。集団Yも集団Zも同調圧力がほとんど無いとする。Aさんは集団Yや集団Zにおいては同調圧力を発したり感じたり自己検閲することは無い。たとえばこういうことである。
続く
2009-06-10 00:01
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